3.得意先

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3.得意先

 ホテル玄関前の駐車スペースに車を入れると、空美は暗いロビーへ入った。フロントに人はいなかった。カウンターの呼び鈴を鳴らして待つ。 「すいません。すっかり遅くなっちゃったんですが、大東京印刷の時宗です。」 空美はさすがに疲れた顔で、出てきたフロントクラークに名乗った。夜勤のクラークは端末を覗き込み目で文字を追っていたが、 「ときむね様、本日1名様でしょうか?」 と聞き返してきた。 「そうです。途中電話入れれば良かったんですが、すっかり忘れてしまって・・・。」 空美は若干の後ろめたさを感じながら答えた。しばしの沈黙。やがてフロントクラークが言った。 「お約束は承っていないようですが。」  空美は少しむっとした。遅くなったのは悪かった、途中で電話を入れなかったのも申し訳ない、でも、予約した時に必ず行くからと。そうだ、自動車で向かってると言ったはずだ。渋滞に巻き込まれることだってあるだろう。 「でも今日の夕方予約をしましたし、6時頃には少し遅れるってもう一度連絡を入れました。」  空美は今度は泣きそうになっていた。へとへとだったし、何より精神的に疲れ果てていたからだ。 「すでに担当が交代していますので、入力を忘れたのかも知れません。幸い本日はお部屋に余裕がございますので、それでいかがでしょうか。」  というわけで、空美はツインの部屋に入った。部屋代はシングル分でいいと言う。空美は部屋に入るとすぐに熱いシャワーを浴びて、腹が減ったのも忘れて布団を被ってしまった。  翌朝空美はフロントで予約の件を問い質してみた。予約受けて入力忘れなんて仕事を何だと思ってるんだろう。そんな感覚だったかも知れない。だが、ホテルの回答は、予約は受けていないの一点張りだった。 「予約受付の担当全員に確認致しましたが、お電話を受けた者はおりませんでした。」 最初は申し訳なさそうに言っていたフロントクラークも空美の執拗さに呆れ顔だった。 「そ、そうですか。分かりました。」 空美は投げやりに言うとフロントを離れた。  そこでようやく自分が酷く空腹であることに気が付いた。もはや外で食べるなんて無理だ。空美は2千円の朝食バイキング券を買ってレストランへ行った。この鬱憤を晴らすべく料理を残らず平らげるつもりだ。先ずは洋朝食をありったけ皿に載せてがっついていると、年配の男が近づいてきた。 「やっぱりそうだ。時宗さん。」  男は和やかな笑顔を見せると空美に声を掛けてきた。 「あ、あの・・・、どちら様で・・・。」 スクランブルエッグを目一杯詰め込んだ口をもごもごさせながら空美は顔を上げた。 「いやですよ。先般は大変お世話になりました。いやもう、御社のアイディアに社長も大喜びで。」 男は空美の前の席に腰掛けるとそう言って豪快に笑った。 「?・・・?・・・!」  その時思い出した。お客様だ。お得意先の庚申(こうしん)電気の総務部長さん?! 「す、すいません。えっと、簑島(みのしま)部長。」 空美は慌ててナプキンで口を拭うと口の中のものを飲み込んだ、目を白黒させながら。 「こんな所で偶然ですね。」 「あの、あの、夏休みで旅行に・・・。」 「そうでしたか、それはいいですね。」 「ぶ、部長はどうして?」  庚申電気は弱小の部品メーカーだったが、美容家電を開発して勝負に出た。その第1弾の自動美顔器のキャンペーンを空美の大東京印刷が請け負ったのである。担当は第2営業部の犀川課長で、その下に憧れの端〆先輩が付いていた。営業推進部の空美はその業務進行の手伝いをしたのである。 「あれ? ご存じない? 情報通の時宗さんらしくないじゃないですか。当社の新しい工場が長岡に落成したんですよ。明日は落成記念で、社長も来るんで先乗りです。」 「そ、それはおめでとうございます。」  空美は多少の違和感を感じつつもそつなく受け答えた。なにしろ簑島部長とは1回だけ出張校正(しゅっちょうこうせい)の折に会社でお会いしただけなのだ。誰かと勘違いしている? 空美は狐につままれたような気がした。 「そうそう、次の製品が出ますからね、またお願いしたいと思っています。大手代理店さんもいらしたんですが、私は大東京さんにお願いしたい。」 「あ、ありがとう、ご、ございます。」 「いえいえ。たぶんコンペになっちゃうと思うんですが、私は時宗さんに勝って貰いたいなあ。」 「いや、でも私は・・・。」  言いかけて空美は口をつぐんだ。やっぱり変だ。一回しか会ったことのない業務の私に次のコンペの話なんて。簑島部長絶対何か勘違いしてる、空美はそう確信した。 「まだ言えないんですけどね、次は大きな仕事になると思いますよ。」 「そ、そ、そうなんですね。」  空美にはそれだけ言うのがやっとだった。空美に営業の事なんか分かるはずもない。 「そうなると大手の代理店さんも当然手を挙げられる。でも、私はね前回の仕事を一生懸命やって下さった時宗さんを信じてます。」 そう言い切ると、簑島は席を離れていった。空美は面映ゆい気持ちになっていた。  営業マンがどうやって仕事を見つけるか、そしてその仕事を受注するのか、簑島部長とのほんの1~2分の会話の中で空美も分かったような気がした。 「でも、私に言われたって!」  空美は営業推進部の業務補佐に過ぎないのだ。  部屋に戻った空美はいい口実とばかり端〆先輩の携帯に電話を入れてみた。だが、電話は通じなかった。留守電にすらならない。使われていないというメッセージが流れるのだ。 「おかしいなあ、社用携帯の電話番号が変わるはずはないんだけど。それとも、個人携帯があってもっぱらそっちを?」 それも考えにくいことだ。仕事の電話をわざわざ個人携帯で受けるはずはない。  仕方なく空美は犀川課長の携帯へ電話を入れた。 「犀川です。」 「あ、犀川課長ですか? 営業推進の時宗です。夏休み中にすいません。」 「どうした時宗。旅行中じゃなかったのか?」 「え? あ、はい。旅行で新潟にいるんですが、庚申電気の簑島部長に偶然お会いしまして。」 「簑島部長?」 「はい。長岡に新しい工場がオープンするんだそうです。明日が落成の式典だそうです。」 「なんだって? 新工場か。分かった急ぎ胡蝶蘭でも送ることにするよ。」 「お願いします。それと、新製品の2弾が出るそうです。またうちにお願いしたいって言ってました。」 「そうか、その件は夏休みが終わったら話し合おう。また印刷物中心だと面白くないがな。」 そう言って電話は切れた。  犀川課長の話し方はどこか素っ気なかった。せっかくこんな情報を手に入れたのに、そして営業部では知らなかったようなのに、何でだろう。空美には犀川の課の売上構成など知る由もなかったのである。  空美はちょっとウキウキした気持ちになっている自分を発見した。夏休みの旅行中に得意先の人間と会うって本来最低のことじゃないのか。そんな経験は今まで実際にはなかったけど、そう思うだろう事は容易に想像が出来た。しかし何故か高揚する。空美は身支度を調えると颯爽とホテルを出た。  「カンナちゃん、せっかくだから庚申電気さんの新工場見ていこうか。」 空美は愛車に語りかけるとネットで調べた庚申電気長岡工場の住所をナビにセットした。なにしろ行き先を決めていない気ままな一人旅なのだ。どこに行くのも自由だ。  工場は長岡の郊外、ある村にあった。周囲の道は狭く意外に小さい工場だ。ここは元々庚申電気創業者で現社長の実家だという。もはや両親ともいない実家跡にこれを建てたとネットの記事に載っていた。明日はいよいよ落成式でここで第2弾の製品の製造を行うのだろう。メード・イン・ジャパンというわけである。  空美は工場の敷地の周りを細い道を辿りながら1周してみた。工場としては小さいが個人の家としてはかなり大きい。庚申電気の社長さんてどんな人なんだろう、空美は創業者へ思いを馳せた。  狭い道のせいかまたナビは中途半端な場所に停止して動かなくなった。ディーラーに持って行くか、そんなことを考えながらも右、右とハンドルを切っていくと元の場所に戻ることが出来た。 「よし。行くよ。」  空美は愛車にそう言うと一人旅に戻ることにする。次の目的地は新潟市と決める。途中三条に寄って小さなカトラリーを買えないかと思う。食卓にいい物を並べよう。 「ああ、旦那様のためにお料理つくりたいなあ。ねえ、カンナちゃん。」  今朝までの得体の知れない不安感や憤りみたいなものはすっかりどこかへ吹き飛んでいた。そしてナビも正常に戻っていた。 「帰ったらチェックして貰おうね、カンナちゃん。」  空美は新潟へ向けてハンドルを切った。海の道を行こうと決めたのだった。
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