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4.同棲生活
クルマでの一人旅は非常に充実した大満足なものだった。空美はそう感じながら帰路を急いでいた。
最初この一人旅には自分で計画したものの不安もあった。結局寂しい思いをするんじゃないのか。やっぱり学生時代の友達にしろ、会社の同僚にしろ、みんなでどこかへ行った方がいいんじゃないか、そんなことも考えないではなかった。大体1週間も行き先を決めずに一人で旅するなんて無謀のような気もしたものだ。
だけど、今はどうだ。この6日間の充実したこと。福島観光も良かったし、長岡で得意先の人に会ったこともおもしろかった。新潟ではいい体験が出来た。空美はその後日本海側を北上し、山形で温泉三昧。再び太平洋側へ移動すると、仙台、那珂湊、大洗と海の幸三昧を堪能した。太ったんじゃないか、それが唯一の不安だ。
そして今、夕方の街を家路を急いでいる。7日間の休暇ではあったが、明日1日は休養に充てるつもりだ。すでに都内に入っており、空美は後の道順は愛車に任せることにした。
「カンナちゃん、あとは任せるわ。クミちゃんね、さすがに疲れて何も考えたくないの。」
空美はナビを自宅にセットした。
ピッ。ところが突然ナビが止まった。
『データの更新があります。』
ナビの指摘に空美は急いで愛車を再び路肩に停めた。
「データの更新?」
空美のクルマのナビはネットに繋がるタイプである。少々高かったが、会社で貸してくれるローンの金利が安かったこともあり奮発したのだ。示された手順に従って何度かボタンを押す。そしてデータ更新はあっけなく終了した。ものの1分程度だ。
『データは更新されました。自宅へのナビゲーションを開始します。実際の道路状況に従って運転して下さい。』
空美は再び走り出した。空美はナビの指示するままハンドルを切っていった。たいしてクルマに乗っていない空美には走っている場所が今一分からない。こんな道を通るだろうかと思えなくもない。が、ナビの指示通りに行けば何も問題はないはずだ。クルマは渋滞を避けつつ一路我が家を目指しているはずだった。
『間もなく目的地周辺です。』
ナビが声を上げた。
「え? もう?」
空美も思わず声を上げた。さすがにまだアパートがある調布には遠いはずだ。道の分からない空美にもそのくらいは見当がついた。しかし、
『運転お疲れさまでした。』
ナビは終了してしまった。
「ええ? ここはどこなの?」
口にした空美に次は「私は誰?」が待っていようとは知る由もなかった。そこはかなり立派なマンションの前だ。
「ここどこよ?」
訳の分からない空美。ここへ来てまたしてもナビに不具合が出たと言うしかあるまい。修理に出さなくては。いや、保証期間内じゃないのか、そんなことを考えながら再び自宅ボタンをセットする。しかし、ナビはそれを受け付けなかった。
『出発地以外を設定して下さい。』
「何言ってんの? 出発地って・・・。」
空美はマニュアルがなかったかとダッシュボードを探った。見つからない。トランクかと思い、クルマを降りる。辺りはとっぷりと暮れていたが、電柱の住所表示が目に入った。
「中目黒?」
人気の住所ではある。いいところだ。が、この辺りのアパートでは高過ぎるだろう。空美のお給料では手が出ない。ましてこんなマンション・・・。
すると中年の女性が空美に声を掛けてきた。
「空美ちゃん、今お帰り? 楽しかった?」だが、それは見たこともない人だった。でも、明らかに自分のことを知っている素振りだ。
空美は動揺した。いったい何が起こっているんだろう。女性は空美の答えを待つまでもなく歩いて行ってしまった。トランクにもマニュアルはなかったが、中目黒からなら調布へは何となく道も分かる。空美はナビを諦めて自力で帰ることに決めた。
クルマに乗ろうとした空美の後ろから突然声が響いた。近い。いったい誰? 変なことするならただじゃおかないわよ。ベルトの防犯ブザーに手を掛けながら空美は振り向いた。
「あ。」
ところが空美の口を突いて出たのはこの一言、いや一文字だった。
「お帰り。よかった、間に合った。」
その若い男性はニコニコ顔で空美に言った。そして更に顔を近づけてきた。
「あ、あの。あの。」
空美は口をパクパクさせて目は白黒させて、されるまま男のキスを受け入れた。受け入れたんじゃない、動けなかったのだ。
「端〆先輩。」
端〆健壱は相好を崩して笑い出した。
「懐かしいなあ、その呼び方。どうしたの? 疲れた?」
いったい何が起こっているのか空美の頭はパニックを通り越して機能停止しそうだった。端〆先輩が私にキスを・・・。私、大口開けてそれを受けちゃった・・・どうしよう。その間に端〆はトランクから旅行カバンとお土産の紙袋を2つ取り出すと、空美に押しつけた。
「大丈夫、あとは僕がやるから。先に行ってて。」
端〆はそう言うとさっさとカンナに乗り込んでしまった。思考停止状態の空美は荷物を抱えてエントランスの方へトボトボと歩き出す。端〆は車をマンションの地下駐車場へ運んで行った。
エントランスにあったベンチに腰掛けていると、ようやく空美の頭が回転を始めた。
「これは夢を見てるんだ・・・。」
やはり頭は回転していなかった。ただグルグルと回っているようだ。
「どうしたの? まだこんな所で。分かった分かった、僕が持つよ。」
端〆はそう言うと空美から荷物を奪って、そのままエレベーターへ押し込んでしまった。
そして部屋の前に来る。表札には「端〆・時宗」と書いてあった。
『どういうことなの? 分かんないよお!』
部屋の中へ入ると素敵なリビングだ。落ち着いたグレートーンでその中にアクセントのように黒や濃茶の小物が配置されている。空美が理想としていた配色だった。
すると端〆が突然空美を抱き締めてきた。そのまま唇をまた奪われる。
「あう!」
空美は小さく叫ぶと端〆にしがみついた。それは空美がいつも空想するキスなどではなく、そう、セックスの前段みたいなキスだったのだ。端〆の舌が空美の口の中を嘗め回している。空美は腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
「はあ、はあ。」
荒い息づかいで目を見開いている空美に、
「いいの、いいの。今日は疲れてるだろうからね。あとは明日のお楽しみにして、まずお風呂に入ってきて。その間に食事の用意をしておくから。」
端〆は空美を抱きかかえて立たせると自分はキッチンへ向かった。だが空美は再びその場に崩れ落ちてしまった。
『やだ・・・、少し漏らしちゃったよ。』
空美は心の中で呟くとやがてそこと思われるバスルームへ入って行った。
そのあとのことはよく覚えていない。風呂を出るとバスタオルに新しい下着と寝間着が用意されていた。何を食べたのか、どうやって眠ったのか、翌日の朝全てが夢でしたと起きるまでのことは霧の中のことのように朧気だった。
だけど、夢ではなかった。全ては現実だったのである。まず寝床の違和感に戸惑った。眠っている間は気が付かなかったのだからどうと言うことはないのだが、いつもと違うベッドの感触、布団の感触、そして部屋の空気の感触、全てが違うものだった。不快ではない、不快ではないのだが、いつもと違う・・・。そして昨日のことをあれこれ思い返してみるのだが、全く腑に落ちなかった。
ただ、想像される現実を整理する冷静さは持ち合わせていたようだ。いや、冷静ではなく大雑把さといった方が正しいかも知れない。これは空美の昔からの性格だった。
空美は思い出せる状況から推論を展開した。まず、表札だ。「端〆・(なかぐろ)時宗」とあったことから、自分も端〆も依然独立した時宗と端〆であること。ということは、結婚!してるわけではないことになる。もちろん夫婦別姓での結婚ということも考えられるが、自分はそんな進歩的ではなく、結婚したら姓が変わることを容認していることから、結婚ではなく同棲の類いであることは確かだと思われた。
そして、キス。あのキスはショックだった。あんなキスは、つまり、そういう関係だということだ。単なる共同生活じゃない。断じてない!
そして最大の問題。何故こういうことになっているのかだった。一番あり得たのが「夢」だったのだが、それは否定された。となると、タイムリープかな? 一方的な憧れだった端〆先輩と私は将来首尾良く結婚していた。その未来へ一気に飛んだ。て、バカじゃないかと空美は自分で思った。あるわけないだろ、そんなこと。そこまで考えた時、ドアにノックがあった。
「空美ちゃん、朝ご飯にしない? お腹空いたよ。」
ああ、やっぱり端〆先輩。戸惑いながらも空美は端〆に快活に返事を返していた。
「すぐ行きます。」
空美はタンスを空けると薄いデニム地の七分パンツと淡いピンクのコットンシャツを着て簡単に化粧を直した。ここは空美の部屋らしく、タンスの衣類も化粧品もいかにも空美が買いそうなものばかりだった。
何を作ろう、空美は頭を回転させた。短時間でそこそこ美味しいもの。そうだ、せっかく端〆先輩と朝ご飯を食べるんだからうまくやらなければ。
だけど、またしても昨夜のキスを思い出してしまった。生々しい感触。腰が抜けるほどの感覚は失禁体験と共に猛烈な恥ずかしさとなって空美に襲いかかってきた。
「あとは明日のお楽しみにして」
次ぎに端〆先輩が言ったこの言葉がふいに脳裏に浮かんできた。明日のお楽しみ? え? どういうこと? そういうことでしょ。いやいや。空美はこの頭の中のやり取りを無理矢理押さえ込んで、部屋を出た。
「おはようございます。」
端〆はソファで新聞を広げていた。
「すぐ出来ますから、少しだけ待ってて下さい。」
空美は料理は得意だ。短大を出て4年一人暮らしでずっと自炊してきた。たいそうな料理は出来ないが、普段食べるものなら不安はない。
空美はキッチンにある材料と冷蔵庫のストックを見てトーストとコーヒー、スクランブルエッグにベーコンと生野菜、そして野菜たっぷりのミネストローネを準備した。
噛み合わない話をしながら空美は置かれた現実を把握すべく情報を引き出していった。問題なのは、今の自分がどういう状況なのかどうやって彼に説明するかだった。しかし、どう考えても納得のいく説明が思いつかなかった。それ以前に自分でも何故こういう状況になったのか理解不能だったのだ。
明日のお楽しみ・・・ふいにまたこのフレーズが思い浮かんだ。やばい。端〆先輩は朝からでもOKみたいな顔をしている。若い男性にしてみれば、仮に旅行前日に”した”として6日間も離れていたのだ、最愛の彼女と早くやりたいのは間違いない。
空美は我ながら空想が下品だと感じた。
『と、とにかく時間稼ぎを。まだそこまで決心できてないよ~。私、バージンなんだよ。』
心の中で空美は叫びつつ今日の日の結末が想像できなかった。
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