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「あなたはオリビエに何かを期待しないほうがいい」
「えっ」
「本当は自分でも、わかっているんでしょう?」
はじかれたように、天音がこちらを見た。蝋燭の火が消えるようにその唇から笑みが消える。
「婚約している男に、惚れても無駄だって」
すべてお見通しだと言外に含ませて相手を見ると、天音はうるんだ瞳を見開き、それからすうっと青ざめていく。その様子を見て確信した。
なるほど。やっぱりこいつは自分がなにをしているか、わかってやっていたってわけだ。
まったくこれだから女ってのは……いかにも弱そうなフリをして、そのじつ、したたかでずる賢くて。まったく油断ならない。
ふいに堪えきれないほどとげとげしい感情がこみあげてきて、この甘ったれた性根をやりこめたいという誘惑に打ち勝てなくなった。
あくまで柔和な表情を保ったまま、たたみかけるように言葉を告ぐ。
「変に優しいあいつも悪いと思います。ただ自分に好意を持ってる女に冷たくできないのは、男の性ですからね」
「あの……」
「それより問題はあなた自身ですよ、天音」
オリビエになら通用したろう。だがこの俺には泣き落としも演技も、女の武器は一切効かない。それをこの機会に、わからせておきたかった。――いつもなら見て見ぬフリだが、あいにく俺はこのフワフワ女を、これからフォローしなくちゃならないときてる。
「不躾ながら、俺は腑抜けた根性の人間は大嫌いで。あなたはISSOMに何しに来たんです? あいつに飯を作ってやるためじゃないでしょう」
にこやかに言ってやると、天音の顔色が変わった。頬が見る間に紅潮し、ぶるぶる震え出す。
「私、そんなつもりじゃ……」
そしてそのまま、天音は押し黙ってしまった。てっきり反論がくるかと思ったのに、濡れた唇が何度か何かを言いかけて止めては、浅く息を吐く。
「――うん、そうね。ごめんなさい」
ごめんなさい、だと?!
「俺に謝ってどうするんですか……っ」
それまで臨戦態勢に入っていた体が一気に弛緩するのを止められない。
日本人ってのはすぐに謝ると聞いたことがあるが、しかし、なぜ謝るんだ。どうして闘う前に諦める。
理解できない――こんな簡単に白旗をあげられたら、これ以上責められないじゃないか。まさかそれが狙いなのか。だとしたら相当、食えない女だ。
「なんというか俺が言いたいのは……」天音は食い入るようにこちらを見ている。「もっと必死になったほうがいいというか。普通は、ここに上がってくるのさえ大変なんですから」
しかたなく、ごもごもと言い訳のように呟くと、天音はその言葉にはっと顔をあげ、かすかに喉を鳴らした。
「黄龍……もしかして」
俺は眉間に皺を寄せる。
今の今までしおれた花みたいだったのに、相手が瞳に挑むような光を浮かべ、こちらを睨みつけてきたからだ。今にも泣き出しそうな表情で。口をへの字に曲げたままで。
「聞いたんでしょう、オリビエに」
「なにをですか」
「私の母がダニエル・アドラーの娘だって」
天音は右腕を突き出した。しゃらり、繊細な装飾の金の腕輪が揺れる。
「アドラーの一族はみんなこの外れない腕輪をはめてる。なにかあった時、飛行機のブラックボックスみたいなものだって、これもお祖父さまの方針よ」
天音は話す隙を与えたくないのか、急に早口になった。
「いいんです。隠していたいわけじゃないし。そうよ、私は祖父の七光りでISSOMに来れたの。いつだってそう。祖父はまるでカルト宗教の指導者みたいに我が子や一族を支配している。だから母は祖父の洗脳から逃れられなくて、すべての言いなりで」
「……」
「母が父と別れたのも、祖父が父を気に入らなかったから。そうやって母ばかりか私まで、あの人から干渉され続けてきたのっ……」
いつの間にか形勢が逆転していた。強いまなざしでこちらを威嚇しているのは、追いつめられた鼠のような天音のほうで。こちらはもはや、余裕ぶった笑みを顔にはりつけておけなくなっている。
「でも私は今度こそ自分の力で、人生を切り開こうって思って、ここに来たんです。それだけは本当だから……」
目尻からあふれる涙を指でぬぐい、雨上がりの陽光みたいに微笑む天音を見て、不覚にも心臓が早鐘を打った。
「あ……いいわけしたかったんじゃなくて」
誤解されて悔しいなら、泣いてる場合じゃない。もっともっと努力しなくちゃね、と独りごちる相手を見て、急に逆巻く波のような後悔の念が襲ってくる。
しまった。俺はなにを、勝手に勘違いして。
見謝った。こいつはあの性悪女とはまったく無関係なのに。
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