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「まあ、その、なんというか。オリビエの後は俺が責任持って見ますから、あなたの論文は」
あまりに慌てていたせいか、気づけば思いもよらぬ言葉を口走っていた。
「え。――ありがとう! ああ、よかった。てっきり私、これから研修補助員を辞退するって言われるのかと思って……」
とたんまた日のさしたように天音の顔が輝く。知らず見惚れている自分に気づき、ぞわりと背筋を衝撃が走る。
――ソラはいい子だよ、ファンロン。ただし外の人間に対してはかなり緊張する性格だから、家のなかではなるべく素を出せるように接してやってほしい。
ソラが君を受け入れた時、きっと君も気づくはずだ、彼女独特の美しさに。
これか、オリビエが言っていたのは。
だがもう、手遅れだった。
「ただ、俺は気象学は専門外ですから。あくまでアドバイス以上のことは」
「いいんですっ。意見だけでもしてもらえたら助かるし、嬉しいもの」
悔しいけど私、まだ一人じゃ教授を納得させられない実力だから、研修補助員の力はどうしても必要なの、と天音は訴えるようにこちらをむくと、
「私、黄龍にも認めてもらえるよう、もっとがんばります。だからよろしくお願いしますっ、あの……堅苦しい敬語とかナシでいいので、どうか遠慮なくご指導下さいっ」
今さっき嫌味を言ったばかりだというのに、本当に無防備な笑顔を披露する。
「――本当にいいのか?」
「え?」
「俺が本気でしごいても折れない気構えがあなたにあると? 俺はオリビエのように甘やかしたりはできないですよ」
「……どっ、努力します!!」
(ICT開発王の孫娘、か……)
アドラ―財閥の創設者は米国、シリコンバレーの実業家で億万長者だ。
天音の母はその米国人と日本人のハーフにあたる。離縁した天音の祖母に祖父はいまだ執着しており、娘や孫の人生にまで干渉しているらしい。
――覚悟したほうがいい。
そう言って先ほどの酒場で、オリビエは酒を仰いだ。
――上司に念を押されたんだ。今度の研修生には後ろ盾がついているから、万が一にも粗相があると困るって。正直、研修補助員を受けるか迷ったよ。
けど、結局は指名を受けたんだ、とオリビエは呟いた。
――まあ一時金も出るしさ。帰国すれば結婚するので、なにかと物入りだろ。
(しょせん、物を言うのは、金、金か……)
いや、本当にそうだろうか。オリビエはずっと人の命の重さをその手で量ってきたのだ。あいつは金だけの男じゃないはずだ。
――事務局が君を推薦してきたってことはつまり、君も合格点なんだろうな、ファンロン。
記憶がオリビエの台詞をなぞってゆく。
――僕は利己的な打算で天音についた。それがずっと心に引っかかって、後ろ暗かったんだよ。
(ああ、なるほど)
――だけどあの子、あんなふうになんでも熱心だし、今時ずれてるんじゃないかってくらい純真だろ。
ようは悪い物を一切排除された中ですくすく育ったお嬢さんなんだよな。
で、そばで見るうちに、なんていうか、情が湧いたっていうか。
(あいつ半分、本気になりかけてたんだ)
自分を慕ってくれる女と四六始終、顔をつきあわせていたのだ。
はるか遠く離れた祖国に婚約者がいたとしても、目の前の相手に気の迷いが生じないとは限らない。
「……黄龍?」
こちらを見上げてくる天音の視線には疑いのかけらも感じない。それが面はゆく眩しくて、腹が冷えていく。光のがわにいる人間ってのはどうして皆こう、無防備で暖かくて清純なんだろう。
「じゃあ天音。まずは俺にブラックコーヒーを一杯、煎れてくれませ……くれないか」
居心地の悪さを払うように気を取り直して頼んでみると、天音はまた陽がさしたみたいにぱあっと笑った。
「はい。えっと、黄龍は苦いのと薄いのと、どっちが好み?」
「苦いほうで」
「了解しましたっ」
――悪いけど、天音はファンロンに託したいんだ。僕の言う託すって意味、わかるよな。
手酌しながらそう切り出したオリビエの目には、なにか執着するような、葛藤を抱えた光があり、まったく笑っていなかった。
(この女とはまじめに向き合え、ってか)
だがそんなに心配せずとも、俺は天音に手を出すつもりなど、さらさらない。
(おまえは十分いいやつだよ、オリビエ……俺とちがって)
天音の経歴などオリビエに聞くまでもなく知っている。すべては調査済みだった。
(そうだ。結局のところ天音は選ばれた人間で、俺とは住む世界がちがう)
即座に断じてしまう自分がわずかに哀れで、力をこめて拳を握りしめる。
大丈夫だ。心は平静を保っている。
揺らぐわけにはいかない。他に気をとられる余裕などない。なぜなら。
――任務は始まったばかりだからだ。
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