1 出会い

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「ソラって言う。日本の環境庁から派遣された研修生さ。異常気象の連鎖について論文を書いてる。ソラ、こちらはファンロン。ロシア連邦宇宙局の宇宙飛行士(コスモナート)」 すると(ゆる)やかにカーブする撫で肩を緊張させ、ソラはぎごちなく頭を下げた。細っこい眼鏡の(ふち)()れ、うるんだ瞳がこちらの様子を(ひか)えめに(あお)ぎ見る。 俺はソラの目尻が、まだほんのり赤いのを見逃さなかった。 しかたがない。なぐさめるのは(ガラ)じゃないが――ここはやはり、励ましてやるべきなのだろう。あくまでも紳士的に。 「災難だったですね」 「え?」 先ほど、講義の一部始終を見ていた――その事実を(かく)すつもりなどなかった。 ――なにを考えているんだ、君は。 ISSOM二代目所長、マルティン・シュバイツアー博士は世界的に名の知れた衛星工学の権威で、この観測所の看板教授でもある。 七十代になっても矍鑠(かくしゃく)とした老人は、数式のように明解な口調できびきび話した。 ――ここは観光名所じゃない。真剣な学びの場だ。ぼんやり座って時を無為(むい)に浪費したいなら、自国の大学で存分(ぞんぶん)にやりたまえ。 (きび)しいと(うわさ)の教授が発する言葉には、もし、だとか、たぶん、が入りこむ(すき)はなく、明解に論理が頭に入るドイツ語然としたもので。 ――日本には寡黙(かもく)()とする気風があるそうだが、ここでは持論を()べぬ者は、頭を働かせていないと思われても仕方ないぞ。次は貴君の有為(ゆうい)な発言を求める。 講義終了後にソラが教授から受けた叱責(しっせき)には、あの場の誰もが萎縮(いしゅく)する苛烈(かれつ)さがあった。 「あの……」 だから皆が知っている。 教授の去った後に、ソラが眼鏡を(はず)して手を顔にあてていたのも。耳たぶを赤くして、じっとうつむいていたのも。 「失敗を引きずっていても、前進はないですから。次はあの教授を見返してやればいいんですよ」 そう言った瞬間、ソラは息をつめた。まぶたが大きく開かれる。また涙をこらえているのだとすぐに知れたので、柔和で社交的な笑みを顔にはりつけて会釈した。 「はじめまして、俺はファンロン。グエン・ヴァン・ファンロンと申します」 「グエン、ヴァン……?」 相手がまるで幼児みたいな復唱をするので、腹から深く息を吐くと、食いかけのバゲットが乗った皿を横にずらし、ゆっくりと机に指をたててやる。 「漢字ではこう書きます。(グエン)(ヴァン)黄龍(ファンロン)」 「あ。なるほど黄龍、さん……」 ふん。日本人が、今でも中華の文字を使っているってのは本当らしい。 「両親とも中国系なもので。俺の祖国では多いんですが。これからどうぞよろしくお願いします」 「は、はい、こちらこそ」 差し出した手を、細い指が(つつ)ましくにぎった。 ずいぶん白い手首だな――とその時、不覚にも目を(うば)われた。 繊細で美しい金の腕輪がはまった手は果実のようにみずみずしく、シミ一つない。 サイゴンにも美人はたくさんいたが、こんなにきめが細かく透き通る肌質の女は、そういなかった気がする。 「あ、私の名前はこうです、天音(そら)」 その柔らかな指が、机に文字を書く。 「名字は一ノ瀬」 こいつが一ノ瀬天音、と心の内で復唱した。 (天音(そら)、か。まるで本人の指みたいに、不思議と(なご)む文字を使うんだな……) 一ノ瀬天音。ベトナムの寺院で見た天女像のようになよやかな、気弱で子供みたいなやつ。 それが天音の第一印象で。悪いがとても異性として()かれるような相手じゃなかった。 だからその時は、天音のその先の人生に立ち入るつもりなんて、さらさらなかったのに。 出会ってしまったのは偶然だろうか。 それともやはり、仏陀のいう因縁の結びがあったのか。 ――ともかくそれが黄龍として唯一(ゆいいつ)、心を通わせた女との出会いだった。
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