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と、脳に直接衝撃が走るような痺れがあって、ふいに視界が開ける。
そしていつの間にかこの身体は、勝手知ったるISSOM宅の居間にいた。
「なんだ。これは夢か?」
いや、夢じゃない。この声は俺の声、これは現実だ。
タートルネックにジーパン姿でソファに座ったまま、両手には鉄アレイ、口には疑煙草を咥えている。
サイドテーブルには天音の書いた論文が散らばっていて。
ああ……思い出した。
これはエリュシオンから帰った直後くらいか。
泣きたくなるほど幸せな、光の記憶――。
ほどなく背後からぱたぱたと軽い足音が響いてきた。
天音だ。
ブラックコーヒーとカフェオレが入ったマグカップを両手に持ち、鼻歌を歌っている。
歌の主は机の端に二人分のカップを置くと、そのまますぐ脇のソファに子リスみたいに飛び乗って、脇に挟んでいたチラシをこちらの目の前でちらつかせた。
「ね。コーヒー入れたよ、黄龍」
「おう、ありがとうな」
日本人とは、そうとう風呂好きな民らしい。
シャワーだってあるのに、天音はしょっちゅう湯浴みをしている。
今は風呂上がりらしく、さっぱりしたタンクトップにジャージ姿で、洗い髪は頭の上で大きな団子になっていた。
「あのね黄龍。ちょっとお話が――」
「っ、危ないぞ天音。いきなり近づくな」
慌てて鉄アレイをソファの下に置いた。
ぶつかったらどうする、何キロあると思ってるんだ。
だがこの女は、そんなことはどうにかこっちが対処してくれるはずと言わんばかりに隣にくっついてくる。
「ねえ、無視しないで、ちゃんとこれ見て下さいっ。エレンがくれたんだけど、今度、倉庫街でお祭りがあるんだって。でね」
髪と肌から甘い香りが立ち上り、鼻孔をくすぐる。ささくれた心を潤すように。
こいつの肌がいつもむきたての卵みたいなのは、頻繁な入浴の成果なのかもしれない。
「この店と、この店の料理が絶品なんだって。黄龍、イベントがある週末って時間ある? 私、行ってみたいんだけど、一緒に行かない?」
疑煙草を口から外し、脇に置いていた携帯灰皿に放りこみながらうっすら考える。
もし……このまま腕を回してこの細い身体を引き寄せたら、天音は嫌がるだろうか。柔らかな唇に口づけたら驚くだろうか。
もしも抵抗されなかったら。あの時の夢と同じように髪に手をさしいれ、押し倒して深く舌をからませ、白い肌に指を這わせて……何度だって望みのかぎり、いくらでも甘い愉悦を味わわせてやれるのに。
天音。あんたが涙目になって恥じらう顔を見たい。切羽つまって俺の名を呼ぶ声が聞きたい。何度でも。
触れたい。触りたい。抱きたい。愛したい。
天音がもしも、怖がらずに俺を受け入れてくれるなら――。
最近はこいつがそばにいると、すぐよこしまな念ばかり湧いてしまう。
情けないことに、つまりそれくらい好きになってしまったわけだが、正直なところ、天音は俺をどう思っているんだろうな――。
どのみち一度でも抱きしめたらそこから先、歯止めがきかなくなりそうだったので、腹の奥でじりじりくすぶる熾火を残念な気持ちでもみ消し、答えた。
「とか言って、ついてきて欲しいんだろう。いかにも迷子になりそうだからな、あんた」
にやりと笑ってみせると、天音は魚のふぐみたいにほっぺたを膨らませる。
すかさず頬の両側を手ではさむと、ぷ、と息を吹いて、ますます怒った表情になった。
「おお、おもしれえ顔」
「もうっ、意地悪! 真剣に聞いてるのに!」
本人はめいっぱい不愉快なのだろうが、俺はじつのところ、こいつのこういう紅潮した顔もかなり可愛いと思う。
瞳がきらきらして、裸足をばたつかせる様子も、小動物みたいで。
「悪かった。怒るなよ、行ってやるから……っ」
くつくつ笑いながらマグカップへ手を伸ばす。
しかし、もうそこにあの見慣れたカップはなかった。
「……天音?」
ずきりとこめかみが刺されたように痛んだ。
そしてふりかえるとそこはもう、全然ちがう風景の中だった。
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