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ここは何度か呼び出され、ひっそり訪れた所長室だ。ISSOMの中央管制棟の。
「……君にどうしても頼みたいことができた、グエン・ヴァン・ファンロン」
整然と並べられた本棚を背に、ホコリ一つない机に両肘をついて、老人が座っている。
「ついに双頭鷲から犯行予告が来たのだ、この衛星に。だがわしはここを捨てて逃げることなどできん。ISSOMを立ち上げたのも、ここの長もわしだからな」
ゆえにわしに万が一の事態が起きた際には、君に託しておきたいのだ、とシュバイツアー教授は言った。
ISSOMの遺産。偉業と言っても良い、膨大な知識の蓄積。すなわちデータチップを。
「なぜ、俺に頼むんです」
「悪いが、君のことを少々調べさせてもらった。君が更新する測定機の記録が、あまりに秀逸なのが、少々気になってな――」
ファンロン、どうやら君は幼少時のIQ値がかなり高く、ロシア本国で特殊な英才教育を受けてきたようだな、と教授は控えめな声で言った。
「スペツナズの傘下に、アルバトフ英才教育研究所という機関がある。人工知能開発や英才創出などで世界的に名高いが、人権侵害だと問題の『サーヴィカル・システム』の研究も積極的に行っているという。ID履歴をたどったところ君は十歳かそこらで、あそこの特任研究員に就任していた。もしや……」
「シュバイツアー教授。それはあなたの想像にお任せします」
そうさえぎると、教授は顎髭を撫でる。
「研究所が子供を使って人体実験しているという噂は、どうやら本当だったようだな。そうか。いや、わしが知りたいのはどちらかというと、君がいまだに研究所の被験体なのかという話なのだが」
「と言いますと」
「しかるべき者をたてて、未成年時、親権で研究所に強制加入させられたと主張すれば、ID抹消は可能なはずだ。もし君がそれを望むなら、わしは国際人権擁護団体とネットワークを持つ者に、本件を通報してもいいかと思っておる」
「……」
君も彼なら知っていると思うが、と教授は言った。
「ファンロン、君にはデータを確実に適任者へ引き継いでもらいたい」
教授はいつもの数式みたいな話し方で、こちらを説得しにかかる。
これは理に適っている依頼のはずである。なぜなら君は現状ISSOMに在籍し、八脚神馬所属、梟掃討作戦の実行部隊長なのだから――、と。
「おそらく今回の八脚神馬作戦が終了すれば、君はまたロシア本国に連れ戻されるんだろう。だが君はもうアルバトフ研究所から解放されたほうがいい」
教授のまなざしは暖かかった。
「このままUNF直属になり、宇宙局に勤めたらどうだ。君がこれまでうちたてた実績なら、十分認められるはずだ」
「しかし教授、残念ながら俺の枷はそう簡単には外れないんですよ」
「……その枷を利用して、ISSOMの記憶を受け継いでほしいと言ったら?」
「 ! 」
「そうなれば君の枷はもう、君だけのものではなくなる。大勢の人にアルバトフ研究所のしてきたことが晒されれば、君の運命も変わるだろうーー」
一石二鳥だとは思わないかね、と教授は深い目をして微笑んだ。
「ISSOMの叡知を次の光につないでほしい。希望の火を絶やさないでくれ」
頭を下げられ懇願されて、俺は了解しましたとあの時、答えたはずだ。すると教授は肩の荷が降りたようにため息をつあたのだった。
「そうか、引き受けてくれるか。わしは近々死ぬかもしれない。だが、やりたい研究をやり家族も持ち、長く生きてきた。この人生に悔いはない……」
「待ってください、八脚神馬はまだ負けると決まったわけではありません。ISSOMを防衛するのは我々の使命です」
「なあファンロン。君はきっと過去に、人に言えないような、辛く惨めで悔しい思いもたくさん経験してきたんだろうが……」
だが、いいかね。怒りにかられて復讐ばかりにとらわれちゃあいかんぞ、と教授は諭すように言った。
「悔しかったのなら余計に、これから幸せになるべきだ。わしは君の幸福を影ながら祈っている」
その言葉は胸に深く突き刺さった。
「……お気遣いに感謝します。あなたが私の義父だったら、どんなにかよかったのにと思いますよ、教授」
あの時そう言うと教授は立ち上がり、穏やかな表情で机ごしに握手してくれたのだ。
そうだ。今はっきり思い出した。
「不幸になっちゃいかんぞ。かならず幸せになりたまえ――」
そんなことを言われたのは初めてだったし、このくだらない人生を、そんなふうに見てくれた人間は二人目で。
だから俺はあの瞬間、遅まきながら嬉しい時に歌い踊る天音の気持ちを理解した気分だったんだ。
ありがとうございます、シュバイツアー教授。
斃れて行った者たちの無念を晴らしたら。
その時に俺がまだ、立っていられたなら。
そのあとは少しだけ、自分のことを考えてみてもいいのだろうか。
――よかった。ようやく思い出してくれたみたいだな、ファンロン。
と、さっきから親しげに話しかけてくるあの声が、横で吐息をつく。
――僕はシュバイツアー教授から直に依頼を受けて、君とデータを回収に来たんだよ。
ああやっと思い出した、とこちらも思う。
この声が誰なのか。なあオリビエ。
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