13 闇の中で

5/6
前へ
/63ページ
次へ
ここは何度か呼び出され、ひっそり訪れた所長室だ。ISSOMの中央管制棟(セントラルコントロールタワー)の。 「……君にどうしても頼みたいことができた、グエン・ヴァン・ファンロン」 整然と並べられた本棚を背に、ホコリ一つない机に両肘(りょうひじ)をついて、老人が座っている。 「ついに双頭鷲(ドッペルアドラー)から犯行予告が来たのだ、この衛星に。だがわしはここを捨てて逃げることなどできん。ISSOMを立ち上げたのも、ここの長もわしだからな」 ゆえにわしに万が一の事態が起きた際には、君に託しておきたいのだ、とシュバイツアー教授は言った。 ISSOMの遺産。偉業と言っても良い、膨大(ぼうだい)な知識の蓄積(ちくせき)。すなわちデータチップを。 「なぜ、俺に(たの)むんです」 「悪いが、君のことを少々調べさせてもらった。君が更新する測定機の記録が、あまりに秀逸(しゅういつ)なのが、少々気になってな――」 ファンロン、どうやら君は幼少時のIQ値がかなり高く、ロシア本国で特殊な英才教育を受けてきたようだな、と教授は(ひか)えめな声で言った。 「スペツナズの傘下に、アルバトフ英才教育研究所という機関がある。人工知能開発や英才創出などで世界的に名高いが、人権侵害だと問題の『サーヴィカル・システム』の研究も積極的に行っているという。ID履歴をたどったところ君は十歳かそこらで、あそこの特任研究員に就任していた。もしや……」 「シュバイツアー教授。それはあなたの想像にお任せします」 そうさえぎると、教授は顎髭(あごひげ)()でる。 「研究所が子供を使って人体実験しているという(うわさ)は、どうやら本当だったようだな。そうか。いや、わしが知りたいのはどちらかというと、君がいまだに研究所の被験体なのかという話なのだが」 「と言いますと」 「しかるべき者をたてて、未成年時、親権で研究所に強制加入させられたと主張すれば、ID抹消(まっしょう)は可能なはずだ。もし君がそれを望むなら、わしは国際人権擁護(ようご)団体とネットワークを持つ者に、本件を通報してもいいかと思っておる」 「……」 君も彼なら知っていると思うが、と教授は言った。 「ファンロン、君にはデータを確実に適任者へ引き()いでもらいたい」 教授はいつもの数式みたいな話し方で、こちらを説得しにかかる。 これは理に(かな)っている依頼のはずである。なぜなら君は現状ISSOMに在籍し、八脚神馬(スレイプニル)所属、(フクロウ)掃討(そうとう)作戦の実行部隊長なのだから――、と。 「おそらく今回の八脚神馬(スレイプニル)作戦が終了すれば、君はまたロシア本国に連れ戻されるんだろう。だが君はもうアルバトフ研究所から解放されたほうがいい」 教授のまなざしは暖かかった。 「このままUNF直属になり、宇宙局に勤めたらどうだ。君がこれまでうちたてた実績なら、十分認められるはずだ」 「しかし教授、残念ながら俺の(かせ)はそう簡単には外れないんですよ」 「……その枷を利用して、ISSOMの記憶を受け()いでほしいと言ったら?」 「 ! 」 「そうなれば君の(かせ)はもう、君だけのものではなくなる。大勢の人にアルバトフ研究所のしてきたことが(さら)されれば、君の運命も変わるだろうーー」 一石二鳥だとは思わないかね、と教授は深い目をして微笑んだ。 「ISSOMの叡知を次の光につないでほしい。希望の火を()やさないでくれ」 頭を下げられ懇願(こんがん)されて、俺は了解しましたとあの時、答えたはずだ。すると教授は肩の荷が降りたようにため息をつあたのだった。 「そうか、引き受けてくれるか。わしは近々死ぬかもしれない。だが、やりたい研究をやり家族も持ち、長く生きてきた。この人生に()いはない……」 「待ってください、八脚神馬(スレイプニル)はまだ負けると決まったわけではありません。ISSOMを防衛するのは我々の使命です」 「なあファンロン。君はきっと過去に、人に言えないような、(つら)(みじ)めで(くや)しい思いもたくさん経験してきたんだろうが……」 だが、いいかね。怒りにかられて復讐(ふくしゅう)ばかりにとらわれちゃあいかんぞ、と教授は(さと)すように言った。 「(くや)しかったのなら余計(よけい)に、これから幸せになるべきだ。わしは君の幸福を影ながら祈っている」 その言葉は胸に深く突き()さった。 「……お気遣(きづか)いに感謝します。あなたが私の義父だったら、どんなにかよかったのにと思いますよ、教授」 あの時そう言うと教授は立ち上がり、(おだ)やかな表情で机ごしに握手(あくしゅ)してくれたのだ。 そうだ。今はっきり思い出した。 「不幸になっちゃいかんぞ。かならず幸せになりたまえ――」 そんなことを言われたのは初めてだったし、このくだらない人生を、そんなふうに見てくれた人間は二人目で。 だから俺はあの瞬間、遅まきながら嬉しい時に歌い(おど)る天音の気持ちを理解した気分だったんだ。 ありがとうございます、シュバイツアー教授。 (たお)れて行った者たちの無念を晴らしたら。 その時に俺がまだ、立っていられたなら。 そのあとは少しだけ、自分のことを考えてみてもいいのだろうか。 ――よかった。ようやく思い出してくれたみたいだな、ファンロン。 と、さっきから親しげに話しかけてくるあの声が、横で吐息をつく。 ――僕はシュバイツアー教授から(じか)に依頼を受けて、君とデータを回収に来たんだよ。 ああやっと思い出した、とこちらも思う。 この声が誰なのか。なあオリビエ。
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加