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14 楽園の扉
久々、アルマトイの国際空港を訪れた。
カザフスタンではここのところ新型航空機の導入があいついで検討されている。
関係各社は猫の手も借りたいほど忙しいらしく、俺の所属するバイコヌール宇宙基地にも仕事依頼を出した、というわけだ。
俺の現在の名はキリル・アンドレーエフ。
昔、義父がロシア国籍にする際に届け出た帰化名で、これまでほとんど名乗ってもこなかったから、あまり思い入れはない。
だがスペツナズでの過去を隠すにはうってつけだ。
思えばロシアにもずいぶん世話になった。
寒く暗い幾多の冬には、太陽が燦々と降る祖国ベトナムを懐かしく思わずにはいられなかった。
だが第二の祖国がなかったら、この人生もまた確実に行きづまり、生きる場を失っていただろう。
つなぎの作業着姿で空港の喫煙所から出た俺は、つり下げられた大型スクリーンを何気なく見上げ、思わず足をとめる。
――ダニエル・アドラ―、死去。
黄龍という男をこの世から抹消した天音の祖父は、一週間前に老衰で亡くなったらしい。
九十八才。大往生じゃないか。
今頃、天音はどういう思いでこのニュースを聞いているのだろう。
ISSOM崩壊から、五年がたっていた。
あの日、落下してきたコンクリート片に足を挟まれたおかげで宇宙空間に投げ出されなかった俺が、探しに来たオリビエの救急艇に回収されたのは幸運だったとしか言いようがない。
その後、収容されたロシアの病院で半年ほど生死を彷徨った。
アルバトフ英才教育研究所はそうとう躍起になって、俺を蘇生しようとしたらしい。
義歯はオリビエがとっくに抜いて持ち去っていたから、俺がロシア側に引き取られた際には、何が起きたのか連中は最後までわからずじまいだったわけだ。
俺はこのまま植物人間で終わるだろうとも言われていたらしいが、半年たったある日、奇跡的に意識を回復した。
するとアドラ―財閥がバイコヌールでの航空機設計の職を打診してきたのだった。
黄龍は死亡したとする一報を公には訂正しない代わりにだ。
なんのことはない、体のよい厄介払いというやつだった。
天音の祖父は自分の命令に反し、孫娘の命を危険に晒した男を許すつもりはなかった。
これ以上悪い虫が孫のそばを飛び回らぬよう、名を変えさせ、羽をもいだのだ。
黄龍という自分を失う。
正直、天音と逢えなくなる道を絶たれて未練がなかったと言えば嘘になる。
でもそれで良かった。
どのみち俺はあの時の戦闘で、宇宙で飛ぶ力を失ってしまったのだから。
闇に堕ちたままでもいい、人生をやり直す。
もう嘘はごめんだ。二度と恥じない生き方をしたい、今度こそ。
俺はアドラーの申し出を受けた。
ロシア特殊部隊は除籍をそうとう渋ったらしいが、結局は大財閥の圧力に勝てなかった。
まあ、あそこは腐っても国家秘密組織だから、新しい名前のパスポートを用意することくらいは朝飯前だ。
こうして自分はほどなくして完全なロシア人として人生を再スタートしたのだった。
アルバトフ英才教育研究所の連中は、そうなってもまだこの頭脳に執着していたようだが、思ってもみなかった外部から厳しく実態を糾弾され、泣く泣く次なる義歯を装着するのを諦めたらしい。
オリビエが手を回してくれたおかげだった。
あの義歯は今、ノルウェーの医療団体が保管している。
今にして思えば、あいつの祖国も国際人権擁護団体の力も、けっこうな影響力があったわけだ。
なるほど天音の言ったとおり、諦めなければまだ間に合うのかもしれない。
俺は義歯の一件でひそかに考えを改めた。
環境汚染。紛争。貧困。差別。
この疲弊した地球に、残された時間は少ない。
だがそれでも人はまだ、なにがしか善きことを成し遂げられるだろう――志ある国や人間たちが、この地球上に存在するかぎりは。
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