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「……っと、マズいな」
そろそろまた新設機の設計会議の時間だ。
まったく最近の空港では喫煙所がほぼ絶滅しているから、こうして一般客のエリアにまで足を運ぶ羽目になる。
――黄龍。煙草は身体に毒よ。
かつてやんわりと優しい声にとがめられたのを思い出し、唇を歪める。
二人で暮らしたあの短い間に、量はずいぶんと減らした。
しかしどうしても最後の一服をやめられないのは、どうやら煙をくゆらしていると好きな女のなにげない所作を思い出せるのが原因らしい。
(もう一度、一目この人生であいつと邂逅する機会があったなら……、その時こそは禁煙でもなんでもやってやるさ)
誰にするとでもない言い訳を考えつつ、人波をやりすごして関係者入り口に近づいた時、右足の甲に軽い圧迫感があった。
見れば幼い男児が盛大に足下で転んでいる。
「大丈夫か? チビ」
慌てて助け起こすのと、そいつが火のついたように泣き出すのが同時だった。
「――遙瑠!」
キャメル色のトレンチコートを羽織った母親がかけ寄ってくる。
「ごめんなさい、ご迷惑おかけして」
ふうわり香る花の香り。
その匂いに覚えがあった。
凍りついたように立ちつくす俺にむかって、見覚えのあるオパールの首飾りをつけた若い母親は丁寧に頭を下げた。
「どうしてあんたが――」
ここにいる、天音。
言葉はそのまま、のどの奥に吸いこまれて消えてしまう。
「黄龍……」
一拍の後、懐かしい声が俺を呼んだ。
天音。
しばらく見ないうちに、ずいぶん綺麗になったじゃないか。
あんた結婚して、もう子供までいるのか。
ぐっと腹に力を入れた。
相手は誰なんだ、胸をかきむしりたいほどの切なさが強烈に襲ってくる。
「よう。元気だったか」
つとめて平静な声を絞り出した。
畜生、俺は阿呆か。
こんなにみっともなく動揺して、それでもなお震えるくらい目の前に天音がいるのが嬉しいだなんて。
すると天音は魔法のように子供を泣き止ませつつ、くしゃっと笑った。
「私ね、あなたに会いに来たの。でも空港、広すぎて、遙瑠、はしゃいじゃって。良かった、ようやく会えて」
話したいことがあるのよ、と天音は言う。
俺は近くのビジネスラウンジに許可証を提示して入れてもらい、二人を中に入れてソファに座らせた。
「で、俺に話って」
「祖父の……危篤の知らせを聞いてね。思い切って逢いに行ったの、シリコンバレーまで。そうしたら教えてくれた、あなたのこと」
天音はふうっと遠い目をした。
「あの日、黄龍を追えなかったこと、死ぬほど後悔したわ。あなたは私を守ってくれたのに。生きてるって知ったら、逢いたくて逢いたくて、我慢できなかった。それで、来たの」
だからね、と天音は言ってまた笑おうとし、ちょっと失敗した。
そのままソファから立ち上がるとしずしずと頭を下げる。
「私と、……結婚してください」
俺は二の句がつげなかった。
変わったのは外見だけかよ。
いきなり現れたと思ったら次は結婚だ?
さとすように冷静に言葉を選ぶ。
「あんたな。それはないだろう?」
すると天音は驚いたように顔を上げた。
「どうして」
「どうしてって、その子供はどうするんだ」
「……喜ぶと思うけど」
「喜ぶわけないだろ。いきなり見知らぬ他人を父さんって呼ぶんだぞ」
かつて自分が経験してきた過去を思うと、とてもそんなことを強要できない。
すると天音は唇を引き結び、なにか言いたげにこちらを見た。
しだいに瞳がうるんでいく。
「……たしかに見知らぬ人かもしれないけど、他人なんかじゃないわよ。本当の父親だもの」
待て。ちょっと待て。
頭が軽い恐慌状態におちいる。
なんだ? 今、天音はなんて言った?
「遙瑠はエリュシオンでできた子なの」
今度こそ俺は慌てた。
たぶん今まで生きてきた中で一番、慌てたんじゃないかと思う。
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