14 楽園の扉

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「なんだって?!」 「ねえ、まだ忘れたふりするつもり? もうやめてよ……心が折れそうになるから」 ――忘れるもなにも。 俺があの夢を忘れるはずがないじゃないか。 それじゃ、あれは本当に(まぼろし)じゃなかったのか。 天国で天女を抱いた夢。俺のものになれと血を吐く(おも)いで何度も念じながら。 「祖父に言われて、オリビエに連絡を取ったの。全部聞いたわ、あなたの後遺症のことも」 私、今でも怒ってるんですからね、と天音はきらきらした目でこちらを(にら)みつけてくる。 やっぱり気のせいじゃない、なんだかこの女、母親になって前より強くなったような。 「エリュシオンであの夜、体調を(くず)したのは、直前に宇宙空間に出たのが原因なんでしょ。自分が苦しくなるの、絶対わかってたくせに、どうして私を(かば)ったりしたのよっ」 「は……」 「だいたい黄龍は、いつもなんでも全部抱えこんで、なにも話してくれないで。それ、悪い(くせ)よ? 私だってあなたを守りたいって、ずうぅっと思ってたのにっ」 「いや待て、(たの)む、その話は後にしてくれ」 俺は少しよろけて、(ひたい)に手をあてた。 そうだ、エリュシオンから帰ったあとしばらくしてから、天音は体調を(くず)気味(ぎみ)だった。 突然、食べ物を受けつけなくなったり、吐いたりして。 じゃあ、あれは――つまり、そういうことだったのか。 突然、足元から(おさ)えようもなく(ふる)えが立ち上ってくる。 つまり俺は、今日まで天音になにをしたんだ?  息を飲み、思わず歯を食いしばった。 「誤解しないで」 すると、まるでその考えを(さっ)したかのように天音が固い声を出した。 「私はエリュシオンでのこと、後悔してない。ううん、むしろ(うれ)しかった。涙が出るほど幸せだった」 だってそれまで誰も、あの祖父を恐れて一線を()()えて近づいてきてはくれなかったのよ、と天音は言った。 「黄龍だけが、初めからありのままの私を見てくれてた。(おく)せず受け入れてくれた。私はあなたの、そんなまっすぐなところを愛したの」 そして今でも変わらず黄龍が好き、そうきっぱり言い切り、(いど)むようにこちらを見つめてくる。 「私、ずっとあなたに(あやま)りたかった、別れた時のこと。一瞬でも、人を撃ったあなたに(ひる)んでしまってごめんなさいって」 「なにを――」 「黄龍。白状すると私ね、あの時、本気でアメリに嫉妬(しっと)してたの」 俺は押し黙る。 なんの話だ。こいつの会話はどうも昔から、うまく先読みができない。 「私そのうち、あなたを取られてしまうんじゃないかって不安で、アメリなんかいなくなっちゃえばいいって、何度も念じてた……」 私、黄龍が思うより全然、汚くてどろどろしてるんだから、と天音は怒ったように言う。 「アメリに捕まった時、本当に銃の引き金を引かなきゃならなかったのはあなたじゃない、私よ。だからアメリを殺した罪があるってなら、それは殺意に刃向かう手段をなにも持たなかった、私のほうなの」 「……」 ようやく話の意図(いと)(さっ)して、天音の心意気に胸が熱くなる。 この女は俺を(かば)おうというのか。こんな華奢な身体をしているくせに。 「ねえ、黄龍。あの無機質な死の空間と隣あわせの、ガラス細工みたいに(はかな)い夢の園で――私たちは一つ、新しい命を授かった。それって奇跡でしょう?」 「天音……いや、それは」 「黄龍は前に、自分は楽園に入る資格なんかないって言ったわよね。だけど神様は、本当はあなただって、ちゃんと許して受け入れてくれていた。その証拠がこの遙瑠(はる)よ」 俺は胸を()かれてたじろいだ。 「あんなに大勢の知り合いが死んだ後で、遙瑠(はる)が生まれてきてくれて、私、本当に救われたんだから。それに――」 故シュバイツアー教授の理想だって消えてない。ISSOMで議論されていた構想だって今、世界気象機関とも協力して、実現に向かって一歩づつ動いてる。 私また、あなたに助言してほしいの、と天音は真剣な顔で言いつのった。 「だから……だからねっ」 気持ちを(ふる)い起こすように子供の頭を軽く()でると、 「もう一度言います。私と結婚して下さい、お願い」 俺の手をつかんで引き上げる。 「一緒に生きよう、黄龍」 「天音――」 畜生、どうしても言葉が続かない。なにか気の()いたことを言ってやりたいのに。 「遙瑠(はる)は四歳になったの。ね、お父さんにご挨拶(あいさつ)して」 こんにちは、と可愛らしい手が俺の指を(にぎ)る。 俺は曲がらぬ左足を無理矢理ずらしてしゃがみこみ、頭のてっぺんからつま先まで子供を観察した。 清潔な襟付きシャツにウールのベストを着、下は地厚い綿の半ズボンに茶の革靴を()いている。 細い黒髪。 褐色の肌に天音の面影(おもかげ)(うつ)()んだ瞳。 緊張し、唇をつり上げて笑む仕草(しぐさ)を見て息を飲む。 ――こんな変なところ、似るなよな。 「おじさんが、僕のお父さん?」 物珍(ものめずら)しそうにビジネスラウンジを見回しながら、遙瑠(はる)は口を開いた。 「ああ、そのようだ」 もごもご言い、それから(あわ)ててつけ()す。 「よく来たな、遙瑠(はる)」 と、天音が急にするどい声を上げた。 「黄龍あなた……、足、どうしたの?」 俺は(うなず)き、苦笑して立ち上った。 作業着の(すそ)をまくり上げてみせる。 そこに血の通った肉はなく、板バネが靴を()いていた。 「左足はISSOMで(つぶ)された。まあ、仇敵(きゅうてき)との勝負に勝った代償(だいしょう)ってところか。再生医療も叶わないくらいのひどい損傷だったらしくてな。俺は半年間は植物人間状態だったから、意思確認もままならずで、見ての通り今は義足だ。以前のようには走れない」 「私と別れた、あの後で……?」 また(うなず)くと、天音は口に両手をあてた。 瞳の奥から透明なしずくが()き上がり、見る間に(あふ)れ出、(ほお)を伝う。 ――やめろ、(たの)む。そんなに泣くな。 まさに滂沱(ぼうだ)の涙というやつを見せつけられ、俺は年端のいかぬ少年(ガキ)みたいにうろたえる。 そうだった。 焦燥感(しょうそうかん)が胸を焼く。 天音の涙には尋常(じんじょう)でない力があるのだ。 だからすぐに、たわけたことを口走ってしまう。 「それでもいいなら、また一緒に暮らすか。今度は三人で」 しまった。 口の()にのせてしまった言葉は、(すべ)り出た途端(とたん)、そう有りたい未来へと確実に変容していく。 ――ああ、もう降参(こうさん)だよ。 二度と届かないと(あきら)めていた楽園の扉が今、開く。 「俺も今でもあんたが好きだ、天音」 俺にとって光()す場所は、いつだって天音のいるところにしかない。 「遙瑠(はる)を……抱いてみてもいいか」 天音に手伝ってもらい、初めて我が子を抱き上げた。 おずおずと(ほお)を寄せる。 遙瑠(はる)は緊張しながらも、おとなしく抱かれている。 幼い子供特有のふわふわした、日だまりみたいな匂い。 いつまでも(にぎ)っていたくなる、(やわ)らかい指。 無明の闇から、俺を(すく)い上げる手だ――。 天音に遙瑠(はる)を返すと、我慢(がまん)できずに目頭(めがしら)を押さえる。 そのまま腕を広げて二人を引き寄せ、()みしめるように(つぶや)いた。 「約束だ。誰よりもなによりも、大切にするよ」 生きていく。今度こそ、幸せに。 やっと見い出すことができた、俺のこの『楽園(エリュシオン)』で。         了8c794f2e-08c7-4e04-b3a0-1394c0986856
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