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「なんだって?!」
「ねえ、まだ忘れたふりするつもり? もうやめてよ……心が折れそうになるから」
――忘れるもなにも。
俺があの夢を忘れるはずがないじゃないか。
それじゃ、あれは本当に幻じゃなかったのか。
天国で天女を抱いた夢。俺のものになれと血を吐く想いで何度も念じながら。
「祖父に言われて、オリビエに連絡を取ったの。全部聞いたわ、あなたの後遺症のことも」
私、今でも怒ってるんですからね、と天音はきらきらした目でこちらを睨みつけてくる。
やっぱり気のせいじゃない、なんだかこの女、母親になって前より強くなったような。
「エリュシオンであの夜、体調を崩したのは、直前に宇宙空間に出たのが原因なんでしょ。自分が苦しくなるの、絶対わかってたくせに、どうして私を庇ったりしたのよっ」
「は……」
「だいたい黄龍は、いつもなんでも全部抱えこんで、なにも話してくれないで。それ、悪い癖よ? 私だってあなたを守りたいって、ずうぅっと思ってたのにっ」
「いや待て、頼む、その話は後にしてくれ」
俺は少しよろけて、額に手をあてた。
そうだ、エリュシオンから帰ったあとしばらくしてから、天音は体調を崩し気味だった。
突然、食べ物を受けつけなくなったり、吐いたりして。
じゃあ、あれは――つまり、そういうことだったのか。
突然、足元から抑えようもなく震えが立ち上ってくる。
つまり俺は、今日まで天音になにをしたんだ?
息を飲み、思わず歯を食いしばった。
「誤解しないで」
すると、まるでその考えを察したかのように天音が固い声を出した。
「私はエリュシオンでのこと、後悔してない。ううん、むしろ嬉しかった。涙が出るほど幸せだった」
だってそれまで誰も、あの祖父を恐れて一線を踏み越えて近づいてきてはくれなかったのよ、と天音は言った。
「黄龍だけが、初めからありのままの私を見てくれてた。臆せず受け入れてくれた。私はあなたの、そんなまっすぐなところを愛したの」
そして今でも変わらず黄龍が好き、そうきっぱり言い切り、挑むようにこちらを見つめてくる。
「私、ずっとあなたに謝りたかった、別れた時のこと。一瞬でも、人を撃ったあなたに怯んでしまってごめんなさいって」
「なにを――」
「黄龍。白状すると私ね、あの時、本気でアメリに嫉妬してたの」
俺は押し黙る。
なんの話だ。こいつの会話はどうも昔から、うまく先読みができない。
「私そのうち、あなたを取られてしまうんじゃないかって不安で、アメリなんかいなくなっちゃえばいいって、何度も念じてた……」
私、黄龍が思うより全然、汚くてどろどろしてるんだから、と天音は怒ったように言う。
「アメリに捕まった時、本当に銃の引き金を引かなきゃならなかったのはあなたじゃない、私よ。だからアメリを殺した罪があるってなら、それは殺意に刃向かう手段をなにも持たなかった、私のほうなの」
「……」
ようやく話の意図を察して、天音の心意気に胸が熱くなる。
この女は俺を庇おうというのか。こんな華奢な身体をしているくせに。
「ねえ、黄龍。あの無機質な死の空間と隣あわせの、ガラス細工みたいに儚い夢の園で――私たちは一つ、新しい命を授かった。それって奇跡でしょう?」
「天音……いや、それは」
「黄龍は前に、自分は楽園に入る資格なんかないって言ったわよね。だけど神様は、本当はあなただって、ちゃんと許して受け入れてくれていた。その証拠がこの遙瑠よ」
俺は胸を突かれてたじろいだ。
「あんなに大勢の知り合いが死んだ後で、遙瑠が生まれてきてくれて、私、本当に救われたんだから。それに――」
故シュバイツアー教授の理想だって消えてない。ISSOMで議論されていた構想だって今、世界気象機関とも協力して、実現に向かって一歩づつ動いてる。
私また、あなたに助言してほしいの、と天音は真剣な顔で言いつのった。
「だから……だからねっ」
気持ちを奮い起こすように子供の頭を軽く撫でると、
「もう一度言います。私と結婚して下さい、お願い」
俺の手をつかんで引き上げる。
「一緒に生きよう、黄龍」
「天音――」
畜生、どうしても言葉が続かない。なにか気の利いたことを言ってやりたいのに。
「遙瑠は四歳になったの。ね、お父さんにご挨拶して」
こんにちは、と可愛らしい手が俺の指を握る。
俺は曲がらぬ左足を無理矢理ずらしてしゃがみこみ、頭のてっぺんからつま先まで子供を観察した。
清潔な襟付きシャツにウールのベストを着、下は地厚い綿の半ズボンに茶の革靴を履いている。
細い黒髪。
褐色の肌に天音の面影を映す澄んだ瞳。
緊張し、唇をつり上げて笑む仕草を見て息を飲む。
――こんな変なところ、似るなよな。
「おじさんが、僕のお父さん?」
物珍しそうにビジネスラウンジを見回しながら、遙瑠は口を開いた。
「ああ、そのようだ」
もごもご言い、それから慌ててつけ足す。
「よく来たな、遙瑠」
と、天音が急にするどい声を上げた。
「黄龍あなた……、足、どうしたの?」
俺は頷き、苦笑して立ち上った。
作業着の裾をまくり上げてみせる。
そこに血の通った肉はなく、板バネが靴を履いていた。
「左足はISSOMで潰された。まあ、仇敵との勝負に勝った代償ってところか。再生医療も叶わないくらいのひどい損傷だったらしくてな。俺は半年間は植物人間状態だったから、意思確認もままならずで、見ての通り今は義足だ。以前のようには走れない」
「私と別れた、あの後で……?」
また頷くと、天音は口に両手をあてた。
瞳の奥から透明なしずくが湧き上がり、見る間に溢れ出、頬を伝う。
――やめろ、頼む。そんなに泣くな。
まさに滂沱の涙というやつを見せつけられ、俺は年端のいかぬ少年みたいにうろたえる。
そうだった。
焦燥感が胸を焼く。
天音の涙には尋常でない力があるのだ。
だからすぐに、たわけたことを口走ってしまう。
「それでもいいなら、また一緒に暮らすか。今度は三人で」
しまった。
口の端にのせてしまった言葉は、滑り出た途端、そう有りたい未来へと確実に変容していく。
――ああ、もう降参だよ。
二度と届かないと諦めていた楽園の扉が今、開く。
「俺も今でもあんたが好きだ、天音」
俺にとって光射す場所は、いつだって天音のいるところにしかない。
「遙瑠を……抱いてみてもいいか」
天音に手伝ってもらい、初めて我が子を抱き上げた。
おずおずと頬を寄せる。
遙瑠は緊張しながらも、おとなしく抱かれている。
幼い子供特有のふわふわした、日だまりみたいな匂い。
いつまでも握っていたくなる、柔らかい指。
無明の闇から、俺を救い上げる手だ――。
天音に遙瑠を返すと、我慢できずに目頭を押さえる。
そのまま腕を広げて二人を引き寄せ、噛みしめるように呟いた。
「約束だ。誰よりもなによりも、大切にするよ」
生きていく。今度こそ、幸せに。
やっと見い出すことができた、俺のこの『楽園』で。
了
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