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1 出会い
――知ってるか、ホアンロン。
我がベトナム産のコーヒー豆は、世界中で消費されてるインスタントコーヒーに好んで使われてるらしいぜ。
そう言ってはじけるように笑った悪友の顔を、もうおぼろにしか思い出せない。けれど懐かしい祖国の風景は今でも鮮明だ。
灼熱の太陽。揺れる大椰子。街中に生い茂る木々の下で、腹に染み入る冷たく甘いアイスコーヒー。
驟雨の上がった横町で、放し飼いにされた鶏がごろつき犬に追い回されている。その路上で博打に興じる親父ども。
屋台で朝食を売りに来る女は、いつも客の食い残しを側溝に捨てていく。そいつを猫ほどもあるドブネズミが、我が物顔して荒らしていく。
――世の中が移ろい、時代が次々に便利な道具を発明し続けても。
泥土の香りと共に息づく勃々たる情景は、この先もずっと続いてほしい。そう切に願う。
西暦2122年、春。
|国際宇宙気象観測所《International Space Stations Ovservatory of Meteorological》、通称ISSOMの食堂で出されるコーヒーも、苦みが強くすっきりした、馴染みの味だった。
*
「――ファンロン!」
唐突に名前を呼ばれた。ISSOMに知り合いなどいないはずなのに、声はひどく親しげに、ぎごちない発音で俺を呼ぶ。
「驚いた。本っ当に、ファンロンだ」
白衣の人混みを縫うようにして、バスケット選手顔負けの背の美男が近づいてきた。
奥歯を噛みしめてファンロンか、と唇の端で苦笑する。
本当はホアンロンというのが正式な発音に近い。
だがベトナム語の抑揚は、外人には真似するのが至極むずかしいらしい。
訂正するのはずいぶん前にあきらめた。軽く椅子を引いて立ち上がり、片手をさし出す。
「オリビエ。久しぶりだな」
握手を交わした相手の明るい碧眼は、白いまつげに覆われていた。
よく日に焼けた頬、真っ白な歯、白金の髪は後ろになでつけられている。
医療白衣のようなISSOMの制服の上にあるのは、忘れもしないのんびりとした人のよい笑顔だ。
こいつをこうして見上げるのは一年半ぶりになる。
「なんだよファンロン。上がってくるなら一言、連絡してくれればよかったのに」
オリビエの国の奴らは例外なく、母国語のように流暢な英語を話す。英国と同じ文化圏だからというのもあろうが、一番の理由は奴らの国が豊かで教育熱心だからだ。
人は、生まれ出る土地を選べない。
それでもこれまで積み重ねてきた歴史の上に、優位に人生をおくれる奴らと、そうじゃない者との格差は厳然と今も引き継がれて存在しているわけで。
一瞬、胸内にちりりと走った暗い炎を苦い思いでかみしめながら、畜生、これだから白人種は嫌いだ、と心うちで毒づいた。
わかってる。
こいつは何も悪くない。
だが俺はオリビエが少し苦手だった。
こいつの住む世界と、俺のそれとは交わることはないからだ。今までも、これからも。
「――急に辞令が出たんだ」
「ROSCOSMOS(ロシア連邦宇宙局)から?」
「まあな。今回はフライトじゃなく、滞在だが」
「滞在って」
「仕事だ。おまえもだろ」
ああそうか、となんの疑いも持たないでオリビエは微笑む。
「せっかくまた会えたのに、入れちがいで残念だなぁ。僕はあと二週間で任期満了だ」
ようやく婚約者に会える、とてらいなく言って頭をかく。見ているこっちが気圧されるほど嬉しそうに。
オリビエ・ラーセン。出身地はノルウェーのオスロ。
二十二世紀の現在もノーベル平和賞の授賞式会場になっているオスロ大学卒業、年はたしか一つ上で二十六。
家業を継ぎ、れっきとした医師で専門は循環器――記憶にあるかぎりスカンジナビア出身の奴らは大概、鷹揚だ。
オリビエの機嫌の悪い顔はみたことがない。
「それにしても、いつから来てたんだよ、ファンロン? 食堂では見かけなかったけど」
問われて、ほんのわずかだが胃の腑が浮いた。大丈夫だ――と、はやる心臓に言い聞かせる。なにも嘘はついていない。
「一週間前、着任したばかりだからな」
「そうか。ふふん、じゃあ、ここでは僕のが先輩になるわけだね、鬼尉官どの?」
そう言ってオリビエは得意げに胸を張ってみせ、また破顔した。鬼か、と思わず苦笑する。以前こちらが容赦なく命令を下したことを揶揄しているのだ。
「……兵役はもう、済んだのか」
「バイドアの任務で最後だったんだ。祖国に戻ってすぐ、選抜試験を受けてここに上がった。君も国へのご奉仕が終わったようで、なによりだ」
オリビエはようやく気づいたように大きな体を折り曲げてふり返ると、遠巻きに立っていた一人の少女を招いた。
「そうだ、紹介するよ」
――オリビエの背に隠れるようにしてそこにいたのは。
「研修補助員制度で、僕がついている子で……」
お、と息をのんだ。
その女を知っていた。
知っていたというより、見ていた、といったほうが正しいか。午前中の衛星工学講義で、ただ一人、なにも発言しなかった女だ――。
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