ワンルームに二人

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ワンルームに二人

 郁人は部屋に入ると、慣れた様子で上着を脱ぎ、クローゼットからハンガーを出してかけた。部屋の中を見回すのは職業病だろうか。 「きれいに住んでるな。職場も近いしいいとこじゃん」 「まあね、郁人はどこに住んでんの?」 「K駅、前の職場の近く。でも今の職場はこっちなんだよ。海斗の店も近いから晩飯食いに行けるわ」 「おう、毎晩こいよ」  冷静に答えるふりをしながら、俺の心拍数は上がっていた。  ここはワンルームのアパートだ。広くはないけれど、昔一緒にもぐりこんだテントよりはましだろ? 終電なくなったら泊ってけよ、とか。でも二人きりでずっといたら余計なこと言って嫌われるんじゃないか、とぐるぐる考えてしまう。  そんな俺に気付いていない郁人は、とりとめのない話を続けていた。俺は半分上の空で相槌を打ちながら、冷蔵庫にある材料でつまみを作ってゆく。 「俺、卒業してからあっちこっちで昼飯食ってたんだけど、何か味が薄かったり、へんに塩っぽいな、とか感じてたんだよ。で、ある日思ったんだ。ちょい待て、これ何基準だよって」  背を向ける俺に無邪気に話し続ける郁人に気を取られ、指の背がうっかりフライパンの縁に触れていた。熱いと感じる前に脊髄反射で手が跳ねる。  「あち!」  一拍遅れて訪れるリアルな感覚にぱたぱたと手を振った。 「火傷?」と心配そうな郁人の声。 「ん、大したことない。慣れてるから」  水ぶくれもできない程度のものだろう。そんなの、この二年で数えきれないほど経験した。こうやってご飯を作り、友達の顔して一緒に過ごすのと同じくらい慣れてる。  そうこうしている内に固く瑞々しかったネギがくったりとして、箸でつまむとなかから溶けだしそうな柔らかさになっていた。  先に作ったトマトとチーズのカプレーゼ、卵サラダの乗った座卓に、出来たての焼きネギを追加した。 「久しぶりの海斗の飯!」 「お前、さっき晩飯食ったばかりだろ」 「あれは店用で、これは俺用だろ?」 「......まあ、な」  卓につくといつの間にか並べられていた小さなグラスに日本酒が注がれた。ガラスの縁を軽く合わせてから一息に飲み干す。すっきりした辛口、俺の好きなやつだ。こんなのも飲めるようになったんだ。昔は甘いお酒をちびちび飲んでいたくせに。  知らない一面を見つけるたびに、二年分の空白を思い知らされる。郁人は空になったグラスを置き、俺の作ったつまみを黙って見ている。切れ長の瞳が弧を描いて細められた。 「何?」  俺の問いかけに郁人は意味深にこちらを見て、トマトとモツァレラチーズをまとめて口の中に放り込む。 「うまいっ!」 「さっき夜定食食ったくせによく食べるな。太るぞ」 「残念でした、ちゃんと運動してるから立派な筋肉になる」 「へぇ、何してんの?」 「ボルダリング、仕事帰りにできるし楽しいよ」  昔からやせの大食いだった郁人は、相変わらず締まった体をしている。不動産営業って内勤のイメージだけど、よく見ればシャツ越しでも筋肉がついているのが分かる。 「そういえば今日は朝飯抜きだったから、お前の作ったものしか食べてないや」  世紀の発見でもしたかのように郁人が笑う。人差し指をまっすぐに伸ばし、俺の心臓のところを指さした。 「つまり今の俺の身体、全部お前でできてるんだな」  ずくん、と大きく心臓が跳ねたのは、触れられたからか、いたずらっぽい光はらんだ郁人の瞳のせいか。布越しに触れられた箇所から熱が広がってゆく。二年かけて郁人のいない生活に慣れていった。なのに、指先の感触だけで一緒にいることが当たり前の身体に変化してしまいそうだ。  動揺を悟られないように、自分の箸を手に取り食べるでもなくズレたトマトの位置を直した。 「…...たかが二食食ったくらいで、大げさなんだよ」 「だって腹減るんだもーん」 「……食えよ、足りなきゃまた作るから」  そういいながら、言いしれない欲望が身体の奥に湧き上がってくる。こいつの身体に入る全てを俺のものに。乾きも飢えもすべて俺が満たし、暗く深い欲望の穴を塞ぎたい。雄としての本能を呼び覚ましそうな想像を、かぶりを振って追い出した。  大学の四年間、郁人の心も身体を全部自分のものにしたいと思いながら、我慢し続けてきたんだ。郁人が喜ぶのなら、もう一度友達に戻って付き合っていこう。くだらないことで、この再会を台無しにしたくはない。  そんな俺の葛藤に気付く気配もなく、郁人は焼きネギに箸を伸ばしていた。箸で摘まむと断面からとろりと液を溢れさせる。ネギに粗塩とコショウとごま油を振っただけの、誰にでも作れるシンプルなつまみだ。箸を止めて郁人がじっと皿を見ていた。 「何か変?」 「ううん、昔もよく焼きネギ作ってたよな。見ただけで味が思い出せる。俺の舌、どんだけお前に飼いならされてんだよ」  そう言って笑った郁人は二年前と同じ距離で楽しそうに舌先を見せた。白い歯の隙間からのぞく熟れた色。血色の良いピンクが、服に隠された肉体を連想させる。それを引き剥がした内側にある、暖かく湿った粘膜の存在を。  無防備な行動が理性のタガを揺さぶってくる。ぐっとつばを飲み込んでこぶしを握り締めた。 「酔って舌なんか出してんじゃねーよ......キスするぞ」  思いがけず低い声に、郁人が真顔になった。 「そんな怖い顔すんなよ、冗談だろ」  冗談、そうだ、これは単なる冗談だ。本気だよ、って言う勇気のない俺は口元を拭いながら向こうをむいた。ワンルームでは逃げ場なんかない。視線の先には大学の時から使っているカーテンがむなしく下がっているだけ。  ばか野郎、人の気も知らないで。唇を噛んで気持ちを落ち着けた。フライパンに触れた指がちりちりする。肉を焼くのと同じ、熱が身体の組成を変えたんだ。火傷した個所はもう元には戻らない。  そんな俺の肩に郁人の手が置かれた。  友達に戻って「冗談にきまってるだろ」って言わないと。そう自分に言い聞かせながら振り返ろうとする前に、肩を強くひかれた。郁人の濡れた瞳がまっすぐに俺を射抜いていた。赤く染まった頬が動き、郁人の唇が挑発的に歪む。 「海斗は都合が悪くなるとすぐ逃げる」 「逃げてなんかねーよ」  こちらを揶揄うような表情に攻撃的な衝動がわいてくる。顔を近づけると、郁人も負けじと顎を突き出してきた。  郁人だ、ずっと一緒にいたかった。俺が全部ほしかったのは郁人だ。ほんの十数センチ先にいる郁人だ。  アルコールで少しだけ現実感の薄れた世界に、あいつの声がした。 「そこまで言うならやってみろよ。でも、お前にできるの?」  何かの合図みたいに湯沸し器がカチッと音を立てて止まった。部屋の中はしっとりとした空気に満たされて気持ちが飽和してゆく。悔しい、このまま無理やりキスをして押し倒してしまいたいのに。顔を近づけても郁人は目を逸らさなかった。代わりに、鼻先が触れそうな距離を保ったまま重心が少しずつ後ろに下がってゆく。  郁人は床の上にあおむけになりながら、覆いかぶさる俺をまっすぐに見ていた。この部屋はこんなに湿度が高いのに、喉がカラカラだ。唾を飲み込む音が大きくて、心臓がまた走り出す。 「やってみろ、とか言うなら本気にするぞ」  ようやく絞り出した俺の気持ちを、郁人は鼻で笑った。  上にいる俺のせいで顔が翳っているけれど、皮肉そうにゆがめられた口元と、ぎらぎらと光る瞳が見えた。いつもそうだ、郁人は目を逸らさない。気が強くて、おしゃべりで、明るくて......。  でもその口から出た声は、これまで聞いたことないほど苦しそうだった。 「四年間そんなもの欲しそうな顔して我慢してたくせに、久しぶりに会ってキスできるくらいなら、なんでもっと早く連絡してこなかったんだよ!」 「え?」 「え、じゃねーよ、何だよその反応。キスすんなら早くしろよ! 人を待たせすぎなんだよ、大遅刻! 社会人失格、ばか、あほ、まぬけ、鈍感、KY」  数々のひどい言葉を投げつけてくる郁人の顔は真っ赤だった。めちゃくちゃ真剣な顔で怒鳴りつけてくるのに、どうしよう。嬉しい気持ちが湧き上がってどんな顔すればいいのかわからない。多分泣きそうで笑顔が止まらなくて、でも我慢しなきゃとも思ってて、きっとひどい顔をしていたのだろう。郁人が口を閉じて眉を上げ、呆れているのを見れば明らかだ。 「......なんて顔してんだ、笑うか泣くかどっちかにしろよ」  顎を掴まれた。郁人の指先がぎりぎりと皮膚に食い込んでくる。三日月のように開かれた唇の隙間から、さっき見た舌がちらりと顔をのぞかせる。こんな状況なのに、俺の下半身が発情期の犬みたいに反応する。郁人の脚が動いて、膝頭で柔らかくこねられた。 「おったててんじゃねーよ。海斗、俺とセックスしたかった?」 「ずっと……でも……郁人と一緒に遊んでいられればいいやって......お前ががそんな風に思ってたなんて、気付かなかった」  嬉しくて、驚いて、滲んでいた視界がさらに歪む。眉間が熱くなって、目頭から流れた涙が頬をくすぐって下りてゆく。郁人は横に転がったデイパックに手を伸ばし、引っ張り出したタオルハンカチを俺の顔に押し付けた。 「こっちが待たされたんだ、慰めねーぞ」 「......うん」  そう言い返すのが精一杯だ。溢れ出そうな涙をどうにか堪えて息を一つ吐く。 すると反対の腕が俺の首の後ろに回って引き寄せられた。軽く唇を合わせた郁人が満足そうに微笑んでいる。 「俺も、したいんだけど。でも今夜じゃなくて、また今度。試験終わってからな。あーあ、社会人はつらいな」  ぽんぽんと頭をたたかれてからまた唇がふさがれる。強引なキスのくせにあいつの舌はじらすように唇の内側をゆっくりとたどっている。もどかしくてこちらから舌を絡めると閉じていた目が薄く開き、俺の咥内に忍び込んできた。  顎を掴んでいた手が緩み、指が輪郭を舐めてゆく。喉を下り、鎖骨を撫で、シャツの上から胸筋の輪郭を確認するように撫でまわされた。指先がまだ柔らかい乳首を捉え、執拗に捏ねてゆく。腹の奥底で熱が高まり、堪えていた気持ちが溶けだした。  シャツを引きずり出した手がベルトを緩め、ズボンと下着をずり下げた。気持ちよくなるために必要なところだけが露出する。床の上でにじり寄って腰を近づけた。  だらしなく涎を垂らす二人の中心を郁人の手がまとめて扱き出した。性急で直接的な刺激を生み出す手つきは、今のこいつの気持ちを代弁しているのだろうか。  鼓膜に纏わりつくような粘着質の音を聞きながら何度も唇を合わせた。額をつけて荒い息を交えながら舌を絡めた。郁人の掌は滑らかで、二人分の蜜液で包まれた欲望はどんどん熱くなってゆく。 「海斗も......触ってよ」  触っていいのなら触りたい。そのまま郁人の身体の奥まで暴きたい。でも年中水を触っている俺の手はガサガサだ。指先をこすり合わせるとささくれた皮膚が引っかかる。 「......俺の手荒れてるんだ」  指先を見せると郁人は愛おしそうに目を細めた。皮膚を傷つけないように頬にかかる髪を後ろに撫でつけてやると、相好を崩した。 「しょうがないな。六年も待たされてるからいい加減にしろって言いたいけど、今日は俺が出してやるよ」
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