京王線

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「昔の話なんて、しないでね」 と言うと、慎重だなあ、と彼は笑った。 彼の家までの帰り道に、毎週使っていたこの公園も、少し来ない間に変わっていて、ジャングルジムにはブルーシートが巻いてある。 「じゃあ、今の話をするしかないね」 西日がまぶしそうに少し目を細めて彼が言うから、 「そうね」 と答えて、私もおんなじ顔をしてみせた。 「私ね、奥さんと子どもがいる人と付き合っているの。すごく穏やかな人でね、だれにも興味がないから人に優しくできるのかなとも思うけど、きっとほんとに優しい人なんだと思う」 ここまでひと息に言うと、深く潜っていた水の中から久しぶりに戻ってきたような気がした。後ろめたいことなんてなにもなかったはずなのに。 「わかるよ」 とすこし間をあけて、彼は言った。 なんでかも、なにがかもわからないけど、きっと彼にはほんとうにわかっているのだろう、と私は思った。 「由佳は幸せなの?」 週末の予定を尋ねるような自然さで、こういうことを訊いてしまえる人だった。 昔から、この人が話す言葉は正しい響きと重さを持っていて、どんな突拍子もないことでも、当然のように聞こえてしまうのが、私は不思議でならなかった。 「正しいかとか幸せかとかなんて、そんなに重要なことかしら?」 質問に答えるかわりに、微笑んで言った。 向こうのベンチにでも座りましょう、と言おうと思ったところで、急に抱き寄せられた。 からだが強く押しつけられる。 嬉しいとも、悲しいとも、嫌だとすら思わなかった自分に、少し驚いた。着古したシャツも、背中に回された腕の感覚も、私の肩に顔をうずめる癖も、なにも変わっていないのに、シャンプーのにおいだけが違っていて、それがなんだかとても奇妙なことのような気がした。 「あのころみたいだね」 ぽつりと彼が言った。 私は安心してしまいそうになる。 「ええ、そうね」 でもかわりにそう言った。 「まったく、あのころのままだわ」 それをいいともわるいとも思っていない声で。 今年最後のセミと、カラスだけがやかましく鳴いている。 ああ、そうだった、と私は思う。彼は、なにも言えないときーーあるいはなにも言わないほうがよいときーーきちんと黙っていられる人だった。 ちょうど、今みたいに。 記憶というのは不思議なもので、忘れていたものも、ひとつ見つかれば次々に溢れていく。 休日の昼過ぎの変な形の寝癖、私の髪を梳く優しい手の感触、なんでもないクイズ番組にまじめに答える横顔。 出かける前は、玄関でこんなふうに、強く私を抱きしめる人だった。 私はいつも息ができなくなって、苦しいよ、って言っていたけど、それが嫌いではなかった。 「ねえ知ってる? 人はね、誰のものにもなれないのよ」 言ったあとで、愛していたはずの男の腕の中で、こんなに冷たい言葉を口にするような女にはなりたくなかった、と思った。 「隣で眠ったって別の夢をみるし、どんなに強く抱きしめたって心の中まではわからないでしょう?」 人はみな、天涯孤独だ、と思っている。 それから、それを諦めてしまわないと、すこやかに生きていくことなんてできない、とも。 それでも私は、誰かのものになりたかった。 あなたの腕の中にしか居場所がなかった私は、ここではたしかに許されていた。 視界の右端に映る、彼の薄く染めた髪が、夕日に透けて、鈍く光る。 ありがとう。 長い人生のたった一瞬、あなたのものになれて嬉しかった。 華奢な彼の胸を押して、からだを遠ざける。 彼は、困ったような顔で小さく笑って、ごめん、と言った。 夏の終わりの夕方の澄んだにおいに混じって、かすかに夜のにおいがした。 「私たち、世界の外側に出れたと思ったのにね」 ふう、と息を吐いて、努めて明るく言ったつもりだったのに、なんだか言い訳みたいに響いた。 「世界の外側って、宇宙、ってこと?」 的外れな答えが可笑しかった。 「でも」 でも、幸せだったわ、と言いかけた。言ってしまったらもっと悲しくなってしまう、と思ったから、あわてて口をつぐんで、 「なんでもない」 と笑った。 私は祖母に育てられた。 口うるさくなくて、深夜のラジオと安いワインが大好きで、信じられないくらいおいしい肉じゃがをつくる人だった。祖母のつくる肉じゃがより優しい味がする食べものなんてこの世界にはない、と私は本気で思っている。 言ってはいけないことを言ってしまいそうになったときには、笑ってしまいなさい、というのが、祖母のほとんど唯一の教えだった。 風邪などひとつもひいたことがなかった祖母は、急に体調を崩すと、病院に行くなり入院して、たくさんの管に繋がれて、なにをする暇もなく、あっという間にいなくなった。 まるで、死まで一直線に繋がっているベルトコンベアにでも乗せられてしまったかのようだった。 彼を祖母に会わせられなかったことを、私は今でも後悔している。 お葬式のとき、彼は隣に立っていてくれた。泣いてもいいし、別に泣かなくてもーーあるいは泣けなくてもーーいいんだよって顔でいてくれたのが、私は嬉しかった。 あれからもう2年がたつ。 私は、その彼をもう好きではなくなって、仕事をやめて、六畳一間の安い家賃を払いながら、妻も子もいる男の不倫相手になっている。 それでも、由佳の好きにしたらいい、としか祖母は言わないだろう、と思う。 意味なんてない、またね、を言って、駅に向かって歩き出したら、急にふつふつと笑いそうになった。私は自分が泣いてしまうのではないかと怯えたが、そうではなかった。でも、たぶん笑うことと泣くことは、深いところでは同じことだ。 夕日がゆっくり潰れて、遠くの山の向こうへと落ちていく。 足もとの小石を蹴ると、ころころころ、と愉快な音を立てて、ぽちゃん、と池の中へ消えていった。 忘れることなんてなにもないわ、と思う。あるいは、忘れられることなんて。 それでも私は今を生きていくの。 改札を抜ける。 夕方の新宿行きはとても空いているから、簡単に座れるだろう、と私は思う。 目にかかった前髪を軽く払って、ワンピースの裾を少し直して、電車を待つ。 なんでもあって、なんにもない場所へと私をつれ帰っていく、京王線を。
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