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京都市役所に勤める父を持ち、私立の女子大に通うごく平凡な学生だった加藤佐絵は、大学四年の冬に京都府立美術館の展示会に赴いた際、その美しさから園衛家の長男である貢に見初められ、妻にと強引に求められた。
正直な話、貢にはまったく興味がなかったし、愛情も覚えなかったが、貢の母である園衛操(みさお)に何度も実家に足を運ばれ、ぜひにと要請されては嫁がないわけには行かなかった。
園衛家の興りははるか千年前に遡る。
始祖はある皇子の息子であり、公家でも最高位に近い清華家の一つとして、また芸術に造詣の深い一家として、長年に渡り京都でも名家中の名家として知られてきた。『園衛様のゆかりの者』と言っただけで、京の古い人々は頭を下げるほどである。
佐絵の父も地付きの人間だけに、園衛と園衛操の名前にはひとたまりもなく、本人が気が進まないにもかかわらず、娘をむしろ喜んで嫁がせた。
操自身は、園衛より格上に当たる家柄の原園家から嫁いで来た女性であった。
夫は貢の生後早くに亡くなったため、その後は女手ひとつで園衛を守り立て、息子を育てて来た。
若くから才気を謳われただけに政治的手腕は確かなもので、自身は書道の園衛流家元代理として全国各地に勢力の根を下ろしながらも、京阪の政財界に喰い込んで権力を掴んだ。
特に功を奏したのは、若い政治家や弁護士といった、将来芽を出しそうではあっても背後の力を持たない人間たちに『園衛』のバックグラウンドを与え、莫大な人脈と財を利用して経済的な支援を行い、恩を売るやり方である。
彼女が目を付けた男女は皆が大物に成長したので『園衛サロン出身』と呼ばれる彼らは、元パトロンである操に協力を惜しまない。
これらには操の優れた美貌も一役買っており、大抵の男ならば操のわがままを笑って許し、美しい彼女と知り合いであるという名誉を競いあった。人々に持てはやされることに慣れ奢った彼女が、溺愛する一人息子が目を止めた女性に辛く当たらないはずがない。
佐絵の父にこそ瑕瑾のない笑顔を見せて心の広い女性を演じていたが、佐絵が園衛に嫁したが最後、その陰険な虐めは目を覆うものがあった。
表面はごく親切に見せかけても、物言いや態度の随所に、佐絵にしか感じ取れない針を含ませていたのである。
言うなれば真綿の中に鋭い針を潜ませて佐絵に握らせ、彼女が針に手を刺して血を流しても、そ知らぬ顔をしているようなもの。
貢もこの母に頭は上がらず、妻の辛さなどもちろん察するわけもなく、美しい新妻が手に入ったのでそれで満足という能なしの男だった。
園衛家の御曹司として、母に似た顔立ちを女性週刊誌に取り上げられて以来、若い女性たちに密かな書道ブームすら巻き起こしたが、その人形のような顔の通り中身もまさに母の人形で、しっかりした男らしい自立心などどこにも持ってはいなかった。
それでも、貢との間に長男の誠が生まれたとき、佐絵は一時だけ救われた。
可愛いさを振りまく赤ん坊にありたけの愛情を注ぎ、夫との不幸な結婚生活を忘れるため、育児に専念している間は倖せだった。
だが誠は他の子供に比べてどこか弱々しく、なんともいえぬ不安に襲われていたところ、医師から先天性拡張型心筋症の診断が出た。
心臓の筋肉が徐々に衰え、最終的には心臓移植以外に完治の手段がないとの宣告を生後四ヶ月にして下された息子の運命に、佐絵は泣いて夫に縋ったが、当然貢にも手の打ちようはない。
操は初孫の誠の難病に心を痛めた様子は見せたものの、ここでも若嫁に病気の原因を押しつけた。
「私も貢もこんなに元気なのに、誠だけいきなりこんな重病になるなんてねえ……」
そうやって暗に『母親の血が悪いのだ』となじられ、佐絵は身の置き所がなかった。
実際にそれは自身が感じていることでもあったからだ。
腹を痛めて生んだ子の病に、ただでさえ母親は責任を感じやすいものだ。加えて園衛にこのような先天的な病人は出たことはないと古い使用人から聞き、やはり自分のせいなのかと慄然としていたのである。
ただ、実家の父に尋ねても『加藤の家に心臓病の人はいないよ』という答えがあったので、その思いつきは胸の内に止められはしたが、操に示唆されたことで、まるで我が身にすべて責任があると烙印を押されたようにも佐絵は思った。
誠は循環器外科の権威であり、洛南大学医学部の心臓外科チームを率いる蘇我政邦教授に託され、彼が指揮するスタッフのもとで闘病生活を続けたが、三歳の誕生日を待たず、若い母の悲嘆を身に受けながら息を引き取った。
蘇我は園衛家と昵懇にしていることもあり、親身に誠の治療に当たってくれたが、いかんせん病勢には勝てなかった。誠の死後に佐絵は第二子の健を産んでいたが、健も何かと病弱で、操はそれで実質、若嫁を見切ったのである。
「二度も続いて元気な子じゃないなんて、貴女以外に誰が悪いというんです? 弱い子しか生めない嫁など、園衛には必要ありません。健は貢の子供でも、貴女が母親である以上、出来損ないも同じです。だから私は、素性の知れない娘との結婚など反対したのに……さっさとその子を連れて出て行きなさい。今後、園衛の名を名乗ることは一切許しませんし、この家の敷居を跨いでもなりません」
あの時の操の言葉は、佐絵の胸を刃のように刺し通し、えぐり抜いた。
自分に対する罵詈ならいくらでも耐えられた、我慢もできた。
だが、腕に抱いた非力な赤子に――それも我が血を引く孫であるのを――不完全な子供だと言い放った操に、人間としての常識と情すら佐絵は疑い、『もし貢さんが同じように病弱で、貴女が誰かに同じ文句を言われても、貴女は黙っていられますか』と思わず言い返した。
しかし操から得られたのは、平然と佐絵を見下し、吐き捨てるように与えられた答えだけだった。
「私は貴女と違って弱い子など産んでいませんから、そのようなことは言われようもないのです」
その詈辱の科白を、佐絵は人の母として一生忘れることは出来ない。
貢は佐絵を離縁させることに一応の反対はしたが、長男も次男も病弱である事実の前には佐絵を引き止める方が難しく、離婚届の印を捺しながら『済まない』と謝っただけだった。
母に笑い掛ける健を腕に抱き、荷ひとつで園衛を去ったとき、佐絵は強くなろうと決心した。
どんなに身体が弱かろうと、健は自分の子供だ。この子の母は、健を守れるのは、自分しかいないのだ、と。
実母が先年亡くなっていた頼みの綱の実家には、操からすでに手が回っていた。
『佐絵さんは誠のことでずいぶんと責任を感じていらっしゃって……ええ、私も何度も止めたのですけれど、ご自分から離縁すると仰有ったので、私にも貢にもどうにもならなくて』という操の虚言を父は信じこんでいて、佐絵は親にすら頼ることはできず、健と二人で大阪市内にアパートを借りて住み始めた。
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