第一章

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第一章

――核酸独特の最も重要な役割は遺伝情報を蓄え伝えることである.細胞は核酸に暗号化して蓄えた情報により自分と同じ機能をもちまた新しい機能を果たす新細胞をつくり出す.  遺伝情報は核酸分子中に全生物に共通で簡単な方法で暗号化され蓄えられる.四つの成分が四つの文字に相当する.……細胞は核酸分子中の四文字の配列をタンパクやペプチド分子のアミノ酸配列に翻訳する.決まったアミノ酸配列のタンパクを決まった量合成することこそ,生物の遺伝の現れ,表現型を決定する. ――E.E.CONN,P.K.STUMPF,R.H.DOI    “コーン・スタンプ生化学 第五版”,田宮信夫他訳(東京化学同人) ※ ※ ※  大阪市内の小さなマンションの一室で、若い女性が箪笥のそばに屈み込み、バッグに荷物を詰めていた。入院している息子のパジャマやタオルケット、洗ったぬいぐるみを持って行くための荷造りである。  馴れた段取りで次々と布地の形を整えている時、電話機が着信音を告げた。 「あらあら、あの人、遅くなるんやろか」  女性はひとりごちながら立ち上がり、夕陽が差し込む明るいキッチンまで急いで行くと、受話器を取った。 「加藤でございます」 『――佐絵さん? 相変わらずお元気そうね』  丁寧な標準語を喋りながらも京都弁のイントネーションが混じる、尖った響き。聞こえて来た相手の第一声を聞くなり、女性は凍りついて声を失った。  受話器を握る手がおののき、顔色も貧血を起こしたかのように蒼ざめる。 「……園衛のお義母様……!」 『あら、よそよそしい呼び方だこと。まあ無理もないですわね、貴女、早々に再婚してらっしゃるようですしねえ』  冷たく軽蔑も露な態度だった。  無理矢理に園衛(そのえ)の家から追い出されて、すでに三年以上も経過しているというのに、義母と一時は呼んだ老女の厭味な物言いに佐絵は深く傷付きつつ、つとめて他人行儀な声音で答えた。 「何の御用でしょうか」  義母は待ってましたとばかり、心底呆れ果てたように言った。 『御用も何もあったものじゃありませんよ。貴女、健(たける)を心臓移植させるために渡米させるんですって?』 「お義母様、どこからそれを――!?」 『臓器移植ネットワークとやらに入っているのでしょう? それにボランティアの協力も受けているとか、嫌でも耳に入りますよ。それよりも、園衛の血を引く子供を勝手に心臓移植だなんて、私に相談もなしに。貴女の無思慮は今に始まったことじゃないけれど、私がちょっと目を離すと、すぐに失態をしでかしてくれますね』  佐絵は怒りに唇を噛み、屈辱と憤怒の涙が零れ落ちそうなのをこらえながら、抑えた声で返した。 「私の血を引いた出来損ないの健など、園衛の子ではない――そう私に仰有ったのはお義母様、貴女だったはずです」 『ええ、たしかに貢(みつぐ)の子供の母親が貴女だなんて、考えたくもないことですけどね。それでも勝手なことは許しません。すぐにそちらに弁護士をよこして、健の親権を貢に譲渡するよう手続をさせます』  佐絵は口元を手で覆い、動揺の悲鳴を隠した。  慰謝料すら持たせず離縁させられ、三年間もただの一つも音信をよこさず、自分たち母子を亡き者として扱って来た義母が、何故今ごろになってこんなことを言い出すのか。  健の渡米と手術待機は間近に迫っている。予断は許されない。その費用の一億という額面を貯めるために、自分と今の夫がどんな苦労をして来たのか、この義母は理解すらしまい。  血の滲むような三年の努力と善意の人々の多大な助力のお陰で、ようやくここまで来たというのに、義母はその歳月の労苦を一瞬にして徒労に帰すつもりなのだ。小さな身体で病と闘っている健を、自分たち夫婦の手から無情にも取り上げようというのだ。  それだけは大人しい佐絵といえど、絶対に容認出来るものではなかった。  彼女はまるで眼前で直接義母と対峙しているかのように毅然と顎を上げ、きっぱりと拒絶した。 「お断りいたします。健は私の子供です。園衛家の血は引いていますが、今は加藤保明と佐絵の子供です、何と言われようと、絶対に手離しません」  義母は佐絵の健気な抗議もものともせず、ほほと高笑いした。一庶民の抵抗など、しょせん園衛の権力の前では何でもないと言い切る。  佐絵には美しい義母が上品な手付きで指先を唇に当てている情景すら、目に見えるようだった。  他者を嘲笑う際、よくしていた仕草。 『佐絵さん、貴女、蟷螂(とうろう)の斧という言葉をご存知? 園衛のお知り合いには政財界の有名な方々も多くて、有能な弁護士さんも園衛のためなら進んで協力して下さることは、一時期といえど嫁だった貴女が一番良く知っているでしょうに。それに健を引き取っても何もしないとは言っていませんよ。貴女のお金など使わずとも、園衛からしかるべき施設に入れて、しかるべき適切な治療を受けさせます』 「止めて下さいお義母様、健を私から取り上げるなんて仰有らないで下さい! 大体どうして三年も経っていきなりそういうお話になるんです、健を私たちの手で助けることの何がいけないんですか!?」    母親の悲痛な叫びは、冷淡な義母の侮蔑で遮られ、踏み躙られた。 『まあ、物わかりの悪い方ねえ、さっきも言ったでしょう? 健が園衛の血を持っている子供だということは、知っている方は知っています。だのに加藤という名前で心臓移植だなんて大々的に報道されたら、園衛家は何も知らなかったのかと恥を掻かされるのですよ。健は園衛の名で治療を受けるべきなのです。判りましたね』 「お義母様っ!」  取り縋っても電話は一方的に切られ、無機質な音を耳に返す。  佐絵は機械的に受話器を戻すと、その場にへたり込んだ。  眩しい夕陽が横から顔に差す光さえ、彼女には光として認識されていなかった。 ――“恥を掻かされる”――  鼓膜に残った義母の癇の立った声が、繰り返し繰り返し脳裏を流れる。  あの方はいつもそうなのだ――佐絵は口惜しさに涙を落とした。園衛の名誉。園衛の恥。それが義母の行動理念であり、規範だった。子や親の情愛など二の次、三の次。健が孫だからという可愛さや、心配で手を差し伸べるのではないのだ。  過剰過ぎるプライドに支えられた体面だけを気にする操が、一般家庭の出身である自分に辛く当たった過去は、思い出すだに胸を裂かれる。
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