第二章

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「……判った。いつも済まないな」  索漠と沈む感情を抱えながら、蘇我は押し出すように、抑揚のない口調で友に礼を言った。  北森の表現するところの“番犬”とは即ち、彼と気脈を通じている暴力団大谷組を意味する。  法律面で密かに手を貸す代わり、彼は園衛や蘇我、はたまた自分に不利な人物が現れるたびに組に依頼して邪魔者を消して来た。  三年前、沖田忠男弁護士を踏切事故に見せかけて抹殺したのも彼の差配に他ならない。  蘇我自身は以前の沖田氏の詳細を知らないのだが、操と友が説明してくれた内容を総合すると、どうやらくだんの弁護士は突然に書状を送って来た後に園衛家を訪れ『蘇我教授が医療事故を起こした疑いがある。そのため、彼に掛かったことのある患者の家族に事情を聞いている』と述べたそうで、その行動目的に危惧を感じた操は直ちに北森に連絡した。  北森はうろんな弁護士に蘇我の周囲を嗅ぎ回られないようにと即刻沖田を事故死させ、差し当たって落着させたのだ。  ――人間として、医師としての良識を賭けてまで、仕事を続ける価値があるのだろうか。  利害の一致から園衛と組み、友に裏の手口を使って支えられるたびに起こる素朴な疑念を、今もまた蘇我は心中でほろ苦く繰り返した。  二人だけでなく、自分の両手もすでに拭い切れないほどの穢れに染まっている。はたして我が身を、我が心を刻一刻と削り、最後の良心まで犠牲にしてまで望むほどのものなのだろうか、目指している目標が。  すでに結論は出ている、いや、そもそもの始めから出ていた。  蘇我は悪人にはなり切れなかった。感情的に相容れない権力者に助力し、愛する友を闇に貶める方へと傾く天秤を、魂は疾うに放棄していた。  けれど、もはやすべては遅い。  乗り掛かった船を降りて今更どうなると言うのだ?  第一、加藤健の――望み得るならば異父弟である勇太のものも一緒に――DNAサンプルを得なければこの研究の裏付けと自論の完全化は叶わない以上、孫をこちらに渡そうとしてくれている園衛操との関係を断ち切ることは出来ない。  来し方を俯瞰すれば、つまるところ自分も世の罪人と大差はない咎を数多く為して来ている。それに魂が悪行の悔恨を促しても、もう一人の昏い己が名誉と栄達を、自論の完成を求めているのはまぎれもない話で、善人ぶるにはその領域が邪魔をしていると蘇我自身は感じていたのだった。  しかし北森は蘇我が沈黙の裡に直面している罪悪感には思い至らず――もし察したとしても興味も持たないだろうが――これで用事は終わりだと会話をあっさり打ち切った。 「お前、無理をしているんじゃないか。少し痩せているぞ、気を付けろ。何ならうちの内科を紹介するから」  先般の晩餐会で久しぶりに会った時から心の隅で気になっていた事項を、医者らしい気遣いに乗せて労わる蘇我に、北森はもう四十代だしなと低い笑いを返したきりだった。 『園衛の婆さんとお前のお守りで忙しいだけさ、婆さんに至っては加藤家のことで俺に飯を食わせる暇も与えないんだからな。勘弁して欲しいもんだ』  何か進展があったら連絡しろよと弁護士は続けて念を押して、こちらに返事も言わせないうちにさっさと通話を切ってしまった。  蘇我は友の声を耳にする僥倖の相変わらずの短さに苦笑し、自分も携帯を机の脇に置くと、PCを立ち上げた。  公開発表する予定のない、別種のとある研究内容を纏めているファイルを開き、常のようにデータを打ち込んで行く。ここ最近の日課となっているものだ。  このファイルを眺め、キーを操作する機械的な音を聞くともなく聞くたびに、園衛家の蔵で若い沖田弁護士が語った言葉が自然と脳裏に蘇る。  ――心の中で苦しみを抑え続ける必要はないし、表現方法も決してひとつではない――  なぜかその台詞が、頭から離れなかった。  知りたくない淵を知り、関わりたくない陰に関わる重苦しさ。種々の罪業感。良心の呵責。そのうちのひとつでも形として吐き出した方が良いのかも知れない。沖田が示した論をそう解釈した蘇我は、こうやって人知れず文章を綴ることにしたのである。実験結果の報文という形で。  当初は気晴らし程度にしか捉えていなかったが、続けて行くうちにその行為が一種の斎戒と認識されるようになり、意識が闇色に押し潰されそうになるたびに文章の作成と向き合っては乗り越えるようになった。  若い沖田が蘇我の持している秘密の一部を確実に知っていることは、例の物言いからも疑いを入れない。  そもそも『沖田忠男』という曰くある名前を名乗ることからして怪しい。  だからこそ最初の沖田と同様に北森は暗殺に動いたが、失敗に終わった。  しかしその報を知らされても、蘇我に落胆や悲観といった危機を煽る感情は起こらなかった。己を破滅させ得る要素を持っている男が生き永らえているというのに平然と受け止め、あまつさえ彼の示唆に則った行動を続けていることに、蘇我自身は驚きもしていなかった。  文章をまとめるうちに、迷いの波を鎮める力を得たのかもしれない。  完成した後にファイルを消去するか、封印するかは曖昧だが、きちんとした形に整えるまでは整え、その上で処分の方法を決めようと考えている。  アウトラインは大体完成しており、細部の整地に入る段階に来ていた。  大学から転送した圧縮データを開き、頭の中で並べ替えてはテキストに移す一連の動作が淀みなく続けられる中、学者の横顔を保った男は夜更け過ぎまでPCの前から離れようとはしなかった。
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