第二章

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 大阪の中心部を南北に走る国道25号はキタとミナミを繋ぐ重要な道路でもあり、梅田から難波までの区間は御堂筋と呼ばれている。  全長四km、ビジネス街として名を馳せ、美しい銀杏並木も有名な通りの一角に、『久松商事』と銘打たれた十階建てのビルがあった。  外壁はグレー地のタイルを組み合わせた地味なもので、窓はいずれも反射率を調整したミラーガラスであるため内部は外からはまったく判らず、極めて目立たない建家である。  しかし御堂筋に勤めて久しい人間は、久松商事が精密機器から高級衣類まで幅広く取り扱っている高名な輸入業者であること、そして先代が亡くなって以降は血縁者が経営を続けていることも承知しており、決して建家に近付こうとはしないし、名を噂に上せることも一切ない。  若い者が久松商事の建物に目を止めて『何をしている会社なのか』と指差そうものなら、関わらない方がいいと周囲の年上者にあわてて制止される――つまりはそういう類の人間が集っている企業なのである。  街灯とビルの照明が冴え冴えと浮かぶ夜の九時過ぎ、残業を終えた勤め人たちが駅へと向かう人影をちらほらと路地に落としている頃、溶け込んだ夜闇の向こうからエンジン音と共に滑るように現れたシボレーコルベット=コンヴァーティブルが久松商事の前に停まり、駐車場に入った。  見慣れない高級スポーツカーの登場にサラリーマンたちは遠目ながらも耳目をそばだて、漆黒の車から出て来たサングラスの人間が久松商事に入るのを見るなりしたり顔に目交ぜして頷きあい、触らぬ神に祟りなしとばかり、早々に顔を背けて行く。  車の持ち主は周辺の好奇など頓着もせず、気軽に階段を上ってビルの玄関に立つと、監視カメラのチェックを受ける。それが終わってから防弾ガラス仕様の自動ドアが開き、フロアに到着すると同時に、複数の野太い声に出迎えられた。 「お待ちしておりました、山内さん」  一列に並んでいるダークスーツ姿の男たちのうち、長身の男が折り目正しく進み出て一礼した。  骨太の顔立ちに、短く整えられた髪。武張った世界の住人らしい野性味を帯びているが、眼光の鋭さには、腕だけでないと窺い知れる知性の深さが潜んでいる。己の情人が最も信頼している有能な部下のひとりに、サングラスを外しながら流夏は苦笑して見せた。 「こんばんは、斉藤さん。貴方たちも忙しいだろうから、ロックだけ外してもらえたら出迎えなんていいって言ってあるのに」  窘めるような語調に、斉藤と呼ばれた若い男はとんでもないと答える。 「山内さんを素通りさせるような失礼をしたら、頭に怒られます。こちらへどうぞ、先程からお待ちです」  きびきびと案内を買って出る斉藤の横に並んだ流夏は、場を動かず見送る他の若衆たちに艶然と微笑み掛けて『ありがとう』と告げ、その気のない男たちの心すらもどぎまぎと動かした後で、待つ者の所へと去って行った。 ※ ※ ※ 「早かったな」  『社長室』と明示された扉の奥に通されるなり掛かった一声は短く、しかし無関心な放縦さはなかった。  瑞邦会の代紋を仰ぐ広大な空間では書棚が壁際に並び、革のソファがほぼ中央にしつらえてある。ドアから入った真正面の奥には大きな書類机が設けられており、ブラインドの下りた窓を背にして一人の人物が座っていた。  案内人の斉藤が音もなく一礼して下がった後、書類から顔を上げた各務が目を細めて流夏を見つめる。  どうせ指示を出すだけの部屋、過剰な装飾は取り払えとの各務の一言で改められた内装だったが、それでも取り去れない贅の残影を各所に留めており、一世代前にこの企業が有していた富裕と虚栄を誇示していた。 「食事は済ませたのか」 「適当にね。皓は?」 「俺もさっき済ませた。まあ座れ」  各務は近くの棚からブランデーとグラスを取り出すと、来客用のソファ近くにあるテーブルではなく、書類を脇に寄せて己の前に並べた。その選択の意味はもちろん流夏も判っていて、真っ直ぐ歩み寄るなり机の上に軽く腰を預け、肩をやや捩る姿勢で男に向き合うと、気を引き締めた硬い声で切り出した。 「酒もいいけど、さっき電話で言っただろう? 大事なビジネスの話があるんだ、そっちが先だよ」 「そうだったな」  机の奥行きだけしか離れてない距離を愉しむように各務は喉で笑うと、グラスに注いだ琥珀色の液体を静かに含む。一連の振舞いにおけるその自然さは、他所からの強奪者には持ち得ないものであり、何も知らない者が見ればまず訝しさを覚えるであろう。
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