第二章

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 ――『久松商事』はそもそも、各務の母方がかつて有していた会社の一つだった。  名のある財産家だった一族は子に恵まれず、各務の母を最後に正嫡が絶えた後はその婚家、つまり各務の父方にすべての権利が渡り、今現在では各務自身の持ち物となっていた。  安逸と放恣懶惰を厭って裏社会に入った息子に父は激昂して即刻絶縁を申し渡したが、岳父がことのほか可愛がった孫に残した遺言は守り、大阪市内にある久松系の会社を譲った上での勘当だった。  杯を先代の瑞邦会会長から与えられる際、正直にそれを語った青年に、持参金つきで極道になる男は前代未聞だと哄笑をひとしきり誘ったが、各務の祖父と昵懇の間柄でもあった会長は、会社を組織に吸収することなく本人に一任した。  各務は会社を売って金に換えるのではなく、存続させる方を選んだ。  久松商事の前面に瑞邦会の名前が出るようになったころ、堅気の得意先は軒並み撤退したように見えたが、その実は裏での取引が相変わらず続けられ、各務が裏社会での地位を上げるにつれて、規模も確実に拡大して行った。  もともと貿易業は国境を超えた取引であるからには、扱う物品と相場、ルートの如何によっては強力な裏社会組織との連携を必要とする。これは暗黙の了解とも言うべきものであり、名にし負う大企業もけして例外ではない。  もともと瑞邦会は横浜を発祥とし、関東の主要な港を掌握下に置いているため、海運に手を染めている者でこの組織をないがしろにする人間はまずいなかった。  『久松商事』の存続が成り立ち、発展する理由はこういった業界独特の気風による。  久松の血縁であり瑞邦会の若頭をも務める各務が経営責任者ともなれば、有している手段と信用は計り知れないものがあり、縁を保たない手はないということを“貿易”を知り尽くした古狐たちは知っていた。  各務もまた、彼らがこちらに喰い付くことを見越していたからこそ、平然と久松商事の看板を維持する方を選んだのである。  危ない橋を渡ることに慣れた者同士、表ではそ知らぬ貌をしながらも裏では手を組んで商売を円滑に進め、利害と信頼の上に築かれた付かず離れずの関係の完璧さは国税庁と官憲が付け入る隙もないほどで、常に臍を噛ませ続けている。  ブランデーを干した各務がゆったりと背もたれに寄るのを見届けてから、流夏は懐から一丁の拳銃とDVDディスクを取り出して机に置き、押し出した。  各務は剣呑な光を眦に過ぎらせてちらと見遣り、平坦な口調で語った。 「トカレフTT-33のコピー、東欧での密造タイプ。このあたりでは大谷組が下っ端の鉄砲玉によく持たせている粗悪品だ」 「流石だな。これは俺を襲った大谷組の奴らが持っていた品なんだ」 「何だと」  物憂気な剣呑さが苛烈なそれに瞬時にして変わり、視線が白刃を正眼に構えたかの如くぴたりと止まる。響きの据わったひどく静かな声が、逆に各務の抱いた激怒の凄まじさを明瞭に表していた。 「いつ、どこでだ」 「京都からの帰りだよ。全部で四人だった。簡単に始末は付いたし、下っ端過ぎてあんたの耳には入らなかったんだろうな」 「ほう……例の晩餐会の後か」  ますます鋭くなった返答に、携帯にリダイヤルをしなかったこと、王梨円を同伴させたことの両者への皮肉が窺える。流夏は王にキスをされかけたやましさも併せて頬を一瞬赤らめた。  だが各務は商売の話だという前置きを尊重したのか、晩餐会そのものに関してはひとまず深追いはせず、続きを促す。 「大谷組がお前を狙った理由は」 「もちろん園衛絡みさ、俺が操夫人の脛の傷をつついているものでね。皓、この拳銃とそれからもう一つ、大谷組に関するネタをあんたに渡すよ。三年前に京阪の踏切で弁護士が事故死した件だ。当時、弁護士の周辺を大谷組の三下が嗅ぎ回って、事故直前にも線路の周囲に潜んでいたという情報を掴んでいる。詳細は全部このディスクに入っている」 「―――」  各務は微塵の緩みもない表情でそれを聞くと、よかろうとうなずいた。  大谷組は京都を中心とする約一千人の部隊で、関西でも上位の類に位置する暴力団である。瑞邦会に対等な相手と目されるほどのレベルではなく、縄張りもまったく異にしているが、初代の頃から強力な武闘派として知られており、牙を剥かれれば煩わしい相手として敵側の組織たちも正面衝突は避けがちであった。    とはいえ今の三代目秋智の代になってから、初代二代目の時代には禁忌であった麻薬商売に手を染め始めたことに古参の幹部は反発してほとんどが引退、ために組織は脆弱の一途を辿り、武闘派と恐れられる評判は実質名ばかりとなっているというのがもっぱらの噂である。  この世界では横紙破りと罵られても反言は為せない、実力と器量を無視した血縁継承の弊害と言えよう。  祖父と父が築き上げた武闘派という看板などどうでもよい、今からは闘争ではなく金の時代だと公言している若い秋智が、京都はもとより大阪名古屋まで麻薬のネットワークを広げさせていることは各務の耳にも入っており、関東がその売買ルートに汚染されないよう警戒はさせていた。    そこへもって来ての流夏の情報である。  密輸拳銃の所持といい弁護士抹殺といい、警察に横流しすれば大谷組に司直の手が入る弱みを握っていれば、後々の役に立つ。  価値ある品の提供を受けるからには、代価を求められていることに他ならない。  これがビジネスの本題と知った各務は、取引の中身は何だと目で問い掛け、流夏は単刀直入に答えた。 「ある兄弟の保護をあんたに頼みたい。心臓病で国立循環器病センターに入院している加藤健と、彼の異父弟で勇太という子だ。三歳と一歳の、まだほんの小さな子供たちで、両親ともに堅気だ」
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