第二章

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 ない、と言って逃げるのはたやすい。  けれど恋人が相手のとき、流夏はどんな擬態も演じられない。仕事の話を片付けるまではと張りつめさせていた感情も、それが終わった今、各務の声を聞いただけで頽れそうになっている。  それに各務は犀利な男だ。王梨円の動向を裏社会の人間として把握しており、彼が京都で流夏の同伴を務めたことも、流夏本人に並々ならない興味を有していることも承知しており――それゆえに王に関して神経を尖らせるわけでもあるが――晩餐会で何もなかったはずがないと見抜いているだろう。とすれば、いかなるごまかしも無為に等しい。  グラスを離して躊躇いがちに顔を上げると、「こちらに来い」と促され、流夏は操られるように机を回って男の膝に抱き取られた。  一ヶ月の間、恋しくて恋しくてたまらなかった温もり。  接した途端に厳しい自制は剥がれ落ち、逞しい肩に腕を回してしがみ付いた。  各務の薫りを感じた瞬間に、身体中が痺れそうだった。 「皓……」  きゅっと抱き付いたまま離れようとしない仕草に各務は微笑み、顎に手を遣って目線を合わせてきた。  コンタクトをした眸であろうとも、素顔のときと変わらぬ優しさを注いでくれる眼差しは、愛されているという喜びを教えてくれる。流夏は自分から顔を下ろしてキスをしようとしたが、さり気なく逸らされ、右の口元に各務の唇が押し当てられた。  そこはまさしく王が触れた箇所。偶然とは思えない動作の理由を目顔で問うと、各務は悪戯っぽく苦笑した。 「ビジネスで王と話す機会があってな。その時に教えられたよ」 「―――!」  一体どんなやりとりが二人の間にあったのだろう。  流夏は項に血を上らせたまま、言葉に詰まってしまった。  正直に話すつもりだったのに、当の本人から各務に伝えられていたなど、洒落にもならない。  各務があの程度の接触をうるさく咎める男でないのは知っているし、王にもビジネスの関係者という以上の心情は持っていなくても、やはり何とはない気恥ずかしさは拭い切れず、謝るべきか否かと迷っている間に項に唇が埋められる。  流夏は予期すらしていなかった突然の官能に身を震わせ、息を引いた。 「電話は掛けて来ない、王は同伴させる――この一ヶ月、俺がどれだけやきもきしていたか判っているのか、流夏」 「あ……」  今度こそ落とされた激しく深いキスに思考は停止し、夢中で応えるのが精一杯だった。  その合間にも脇腹や背筋を撫でられ、喉を反らすとワイシャツ越しに胸元を指先で軽く弄ばれ、あまりにもどかしい疼きに鼓動が跳ねる。 「だ、め……皓、……ああ……」  組の建家内でこんなことは出来ないと、かすかに残っている理性を振り絞って制止を唱えても、巧みに与えられる熱が躯を裏切らせる。ただでさえ各務の愛撫に弱く、ささいな戯れで全身が蕩けそうになるのに、一ヶ月というブランクを経た身には、濃厚な弄玩は倍の快楽をもたらす。  このまま進めば尋常では済みそうになかったが、控え目なノックに促された中断に両者はすぐさま冷静になり、流夏は急いで各務の膝から滑り降りてドアに向いた。  未だ覚めやらぬ熱い身体と頬に、流夏はだから止めただろうと言わんばかりに恋人を睨んだが、他方の各務は落ち着いたもの、顔色ひとつ変えずに許可を与え、先刻の命令の結果を持して現れた斉藤が挨拶と同時に入って来た。 「頭、心臓外科の専門医が一名、看護師が三名居ました」 「身元は間違いないな」 「はい。河野の女房と奥伊の女房が正看護師で、比良の妹が准看護師です。河野の女房はN大病院勤務、奥伊の女房は都立病院、比良の妹はJ大病院。胸部外科もしくは小児外科勤務経験者はこの三名でした」 「それなら間違いないな。医者の方は」 「香取医師にお尋ねしましたところ、ご本人が心臓外科のご専門だそうで――」  最後まで各務は言わせず、愉快そうに口元を歪めた。その笑みは心置きない者同士でないと持ち得ない種のものである。流夏は香取という医師をまったく知らず名前も聞いたことはないが、よほどに各務と関わりを持つ人物らしいと憶測した。 「ほう――あいつが心臓外科医だったとはな。で、奴が直々に来ると?」 「はい、ご都合をつけておいでになるそうです」 「よし、良くやった。看護師の三人はすぐに関西入りさせろ、香取には俺が後から連絡する。ご苦労だった」 「は」  斉藤はいつにもまして堅苦しい態度で頭を下げたが、若頭の傍に立っている青年の、明らかに戯れの名残を纏った雰囲気に顔を赤らめ、失礼しましたと上ずる声で述べながら出て行った。  部下が流夏の色香にあてられてしまったのを看破していた各務は、泡を食った退場にくつくつと笑い、あいつには目の毒だったなと他人事のように言ってのける。  そうさせた張本人の涼しい台詞に流夏はすっかり拗ねてしまい、もうこれで帰ると強固に主張し、彼をマンションに連れて帰る心積もりだった各務をひとしきり苦労させることになった。
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