第二章

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 キタに向かってシボレーを運転する斎藤の後部で、流夏はサングラスを付けて夜景を眺めている。  走りに重点を置いた車の宿命と言うべきか、このシボレーのステアリングもまた生半可な運転者には操り切れる代物ではない。しかし斎藤は達者にハンドルを握り、スモールブロック・シボレーV8と呼ばれるエンジンを搭載した車は淀みのない走りを見せ付け続ける。流線型の車体が爆音と同時に夜の大気を鮮やかに潜り抜けて行く様は通行人の視線を集めずにはおらず、振り返る人々の羨望を絶えず背に迎えていた。 「普通の人間には扱いにくいだろうが、いい車だ。日本の街を走らせるには惜しいな」  各務が持ち主である傍らの恋人に口元を緩めながら言うと、流夏は脇を向いた姿勢を変えもせず、つむじを曲げたままの声でそっけなく応じた。 「どこを走るにしてもレスポンスが悪い車は嫌いだ」 「確かにな。大人しくて鈍いよりは、少々じゃじゃ馬でも手応えがある方がいい。女も同じだ」  含み笑いで全面的に同意した後で、ちらと横目を送りながらのさりげない付言。  男は、意味が通じない相手にゲームを仕掛ける趣味は持ち合わせない。  しかし残念ながら年下の恋人は今現在、戯言を受容する気分では到底ないらしかった。 「あいにく、俺は女じゃない」  底意は百も承知のくせに表層をわざと掬って投げ返して来る、天邪鬼な反発。  言い放った当人も凡に流れた返答と感じたか、それきり黙りこくっている。自分で自分に怒っているその姿さえひどく魅力的に映ることは、流夏自身はきっと少しも察してはいまい。  男は喉を鳴らして更に笑うと、徐々に見えて来た己のマンションへと迷うことなく指示を出し、地下駐車場でエンジンを止めさせた。  関西での滞在用に買ったとはいえ、普段住まいとして赤坂に所有するそれと変わらない広さと内装が完備されている各務の部屋は、流夏も幾度か訪れたことがあるので、双方ともレイアウトに惑うことはない。  センサが居住者の帰宅を感知すれば自動的に全部屋の照明と空調が入る。玄関の鍵が下ろされて並んで廊下に入るなや否や、流夏の身体は強引な腕に捕らえられた。  抵抗の余地を残していると見せかけながらその力は逃れられないほどに強く、壁際に追い込まれると同時に唇が塞がれる。  滑り込んで来る舌を受け止めれば自制が脆くも崩れると判っていても、応えずにはいられない。 「……ん……」  各務の項に無意識に腕を回す合間にも、激しいキスの甘さに吐息が抑え切れず零れる。  そんな青年を、顔をわずかに離した男は優しく見下ろした。  怒った態度を取り続けていようとも、それに徹し切れない素直さをからかいたそうな瞳だった。  夜中であるばかりか、冬に近い季節である。気温の低さに身体はどこか寒さを覚えているのに、各務の双眸で見つめられると、自然と頬が火照った。 「いい加減機嫌を直せ、流夏。斉藤は気にするような奴じゃない」  低く、宥められるような声。  それでも口元を硬くして答えまいとすれば、各務の唇がそっと頬やこめかみを掠り、耳朶に触れる。  慈しみが肌膚から染み透り、胸の奥まで浸透するような温かさに流夏はそれ以上、抗えなかった。  含羞んだ微笑を浮かべると、機嫌を直した褒美とも取れる、触れるだけのキスが与えられる。  本当は、各務に堂々と仕掛けられた戯れを斉藤に知られてしまったことは、とっくに怒りを収めていた。けれど簡単に矛を仕舞うのは悔しくて、わざと拗ねた振りをし続けた。  どんなに機嫌を損ねてどんなに子供らしいことをしても、各務は決して怒ったりすることなく悠然と受け入れ、笑みを絶やさない。その懐の深さに溺れも愛しもしているし、肩肘張ったところで絶対に敵わないのは判っているものの、そうせずにはいられなかった。  そして案の定、車内でも各務は応えた様子も見せないものだから、余計に口惜しさが募る一方だったのである。  きっとこのことも各務は承知しているに違いない。だからこうやって自分から歩み寄り、包み込むだけに留まっている。  無理に勝とうとしないから、この男は性質が悪い。少しでも油断していたらいつの間にか足を取られて、全てを攫われる。出会った時もそうやって流夏は各務に取り込まれ、気付いた時には身体だけでなく心まで奪われてしまっていた。  そして、今も。  男の策謀にも似た希求と愛情に、囚われようとしている自分がいる。  ――囚われたい――  敵であったはずの男への恋情を初めて自覚した時と同様、流夏は強く願った。  逃げたいとは思わなかった。  温度を確かめるだけのキスを自ら深く誘い込むことでその意志を言葉に代え、男もまた躊躇うことなく追って来た。
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