第二章

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 広いバスルームの浴槽で、流夏は後ろ向きに各務に抱かれ、髪を洗われていた。  シャワージェルを落としてバブルバスにした湯は肌にほどよい滑りを与え、男の胸板や腕に触れるたびに鼓動が早くなる。  寝室で抱き合ってからしばし睡眠を取った二人は、わずかな間も離れるのが惜しい普段の習慣から、夜中にもかかわらず揃ってシャワーを浴びることにしたのだが、事前に予測されていることながら合間合間に戯れを挟むものだから、汗を落とすという本来の目的は遅々として進まず、各務の支度が終わってようやく流夏の洗髪までたどり着いたのだった。  各務は一緒に風呂で過ごす時はペットを飼う主人さながら、いつも流夏の世話をしてやる側に回る。それも背中を流す程度ではなく、頭から爪先に至るまで、丁寧に。自分ですると言い張ってはみるものの、男の大きな掌に肌や髪をくまなく洗われる心地良さに、つい流夏は目を閉じて任せてしまうのだ。  シャンプーの滑りを借りた指先で何気なく襟足を撫でられ、青年は反射的に肩を竦めた。 「や……皓、くすぐったいよ」 「我慢しろ、あと少しだ」 「嘘ばっかり」  さらりとかわす男の台詞にすかさず切り返しながらも、身体を起こせとの短い命に素直に従って頭を浴槽の外に乗り出す。シャワーで泡を落としてからコンディショナーで整えられた髪が額から掻き揚げられる。  瞼を開いて瞬きし、照明の明るさに慣らした視野の向こうには、同じく濡れた黒髪を無造作に掬うことで、彫りの深い顔立ちを更に際立たせている各務の笑顔があった。  シャワーヘッドを戻した男が浴槽に背を預けると、それに吸い寄せられるように流夏も腕を伸ばし、肩に縋ってキスをねだる。最初はただ、息遣いがくちびるの表面で交じる程度の接触。相手の出方を確かめるように一旦離れ、微かな温もりを交わしてから再び近付き、深く舌を絡める。  濡れた音に混じる甘い吐息。  背を抱き締め合う腕の強さ。  仕掛けたはずが、簡単に立場を逆転されるのはいつものこと。  苦しいほどに口腔内を侵略されてはそっと手繰られる巧みさに、頭の芯が痺れて行きそうになっても、各務は容赦してくれない。ようやく解放されたころには、流夏の眸は紗が掛かったように霞み、腕の力が抜けていた。  そんな恋人を各務は片腕で簡単に支えて立ち上がらせ、そろそろ出ようかと促すと、双方の肌から泡を落として脱衣所へと移動した。  設えられている洗面台もバスルームと揃いの色調で統一され、壁を占有する大きな鏡は両サイドの壁にも一部及んで三面鏡の造りとなっている。通いの家政婦が壁際の棚に並べているバスタオルを各々取って濡れた髪や身体を整えて行ったが、流夏は自分のそれが終わると各務の背中を拭う作業を手伝った。  自分が撃った銃創以外には傷ひとつない、大柄な体躯。  各務が生きる世界から言えば、刀傷も見当たらないのは奇跡に等しい。  頭が切れるゆえに相対的にそうとはみなされないが、もともと武闘派と呼ばれてもおかしくない性質の持ち主だ。この男の怒りを買って生き延びた者はいないとまで言われる冷徹さはつとに知られており、そこまでの渡世人でありながら裏社会の風習と呼べる彫りも一切見当たらない後姿は漂わせる雰囲気との相違が明らかで、見る者に違和感すら覚えさせる。  しかし鍛え抜かれた筋肉に覆われた背はまさしく修羅を生きる男のものであり、墨を負う必要のない魄力に満ちている。項から肩甲骨、そして上腕と続く無駄のないラインは男盛りの躯と呼ぶに相応しく、目にしているだけで流夏の身体は抑え切れず熱くなって行く。  己が構えた44口径の銃口の前に、躊躇いもなく立ち塞がった男。  肩に銃弾を受け夥しい朱に染まりながらもなお、忠誠を誓った人間を庇い、護ろうとした男。  烈しい双眸の鋭さがその瞬間、流夏の心を胸底まで刺し抜き、躯を動かす意志さえも空間に縫い止めた。  思えばあの瞬間から、この男に囚われてしまったのかも知れないと思う。  物思いを悟った各務が顎を少し背けて振り向き、こちらを見つめて来た。   記憶の彼方に蘇った敵意のあるそれではなく、限りない温かさで包み込むような眼差しは、しかし当時と変わらぬ強靭さと鋭利さを秘め、持し続けている。  視線に操られるように流夏は各務の前に位置を変え、左肩の傷に頬を埋めながらゆっくりと腕を回した。同時に男の掌もこちらの脇腹を辿り、腰を掴んで引き寄せる。身の内に再び息衝きつつあった熱は男も同様で、のみならずすでに明瞭な形を帯びており、それを知った流夏の背筋にも衝動が奔った。  反射的に後退ろうとしてもすかさず押さえ込まれ、更に腰を強く重ねられることで嬲られる。欲情が通い合った今はもう僅かな空隙すら、一瞬の間すら、邪魔なものでしかなかった。    荒々しく塞がれる唇に、意志を自ら譲り渡した。  壁際に背を押し付けられ、右の膝裏を各務の左腕が掬い上げる所作を助けるように、長い脚を男の腰に巻き付けた。躯をふたたび容赦なく貫かれる衝撃に、縋った指は精悍な背へと喰い込み、それでも唇から漏れるのは甘く待ち侘びた吐息。  快楽の在り処を知り尽くされている以上はただ翻弄され踏み拉かれるしかなく、最奥から衝き上がって来る悦楽と、すぐ傍にある肌の香りと、支えられる腕の力強さに酔い痴れる。    己の何もかもが形を無くしてしまうと錯覚するほどの官能が、全身を襲う。引いては押し寄せる波が徐々に強くなり、精神を呑み込もうとしていた。  その激越な波に流夏は逆らうことなく身を任せ、運び去られ、男が低く呻いて達した直後に果てた。
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