第二章

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 何のために湯を使ったか判らないと二人で笑い、もう一度軽くシャワーを浴びた後で今度こそ身支度の努力を怠らないよう務めた。  どちらも腰にバスタオルを巻いた格好になると、各務は恋人の髪にドライヤーの熱風を当ててやった。各務は短めの髪で風呂のあとはじきに乾くが、流夏の鳶色のそれはやや長めで、乾燥作業は必須だった。  洗面台の鏡の前に佇んでじっとしている青年の後ろで、男は右手で髪を梳きながら風をまんべんなく当てて手際良く水分を飛ばして行く。主人にシャンプーを施された後で毛並みを乾かしてもらう猫さながら、流夏は満足そうな笑みを口元に浮かべて目を閉じ、されるがままになっている。  あと少しで完全に乾くというところだったが、各務はふと訝しむような色を目元に掠らせるとドライヤーのスイッチを切り、扉の外に耳を澄ませた。  直接向かい合ってはおらずとも鏡を見れば追える男の唐突な変化と所作に、流夏はどうしたのかと訊ねた。 「皓?」 「あれはお前の携帯じゃないのか、流夏」 「え――」  指摘を受けた青年も前髪を掻き上げながら神経を集中させ、遠くの機械音が確かに自分のものと思い当たった顔つきになると同時に、はっと壁時計を見上げた。午前四時過ぎを指している盤面を確認すると、しまったと独言を漏らして身を翻し、男に断りを入れる間も惜しんで脱衣所から飛び出した。  閉じられることのなかったドアから繋がっている空間の向こうで、若い声が携帯に応答している様子が伝わる。  中途半端にドライヤーを持ったまま取り残された各務は常になくあわてている青年の反応に苦笑しながらそれを置き、バスローブに着替えてゆっくりと後を追った。  流夏は仕事用とプライベート用で携帯電話を使い分けている。今回の着信音は後者の物だった。  仕事ならば午前四時という時刻もむべなるかなと思えるが、プライベートでこの非常識ともとれる時刻に掛けてきて、なおかつ流夏をああまで急がせる相手とはと首を傾げたが、通話相手を会話で悟るなり、疑問はきれいに氷解した。 「うん、元気だよ、ばあや。ばあやも元気そうで良かった――そうなんだ、前に電話したんだけど掴まらなくて、留守電に入れておいたんだよ……時差? ああ、気にしないで。この時間なら起きている範囲だからね。本当だよ」  それは流夏の祖母が夫とパリに亡命する時、女主人と命運を共にする道を選んだ忠実な乳母子、菅原秀子だった。主人夫妻の間に生まれた息子だけでなくその孫をも出生の際に取り上げて世話役を務めるなど、三代に渡る一族にかいがいしく仕えて来た女性であり、今も青年が慕って止まない大切な存在である。  レヴィノフ公爵の側近と恋仲になって結婚しても彼女の奉仕は変わらず、夫婦で力を合わせてますます主家のために尽くした。流夏の両親がイギリスに定住した時は公爵夫妻の希望もあって彼女が若夫婦に付いて行き、その家事と家庭をつつがなく支え護ったが、流夏が独立した今はパリに戻って孫たちに囲まれた日々を送っていると各務は聞く。  フランスと日本の時差はおおまかに七時間、この時刻ならばあちらは恐らく夜の九時前後と、一日も終わってひと息ついたころであろう。  流夏はそれを見越した上で、彼女に負担を掛けないようこの時間をリダイヤルに指定したと推測は付いた。
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