第二章

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 寝室の床に散らされたスーツから携帯電話を取り出した青年は、遮光カーテンの前で立ったまま話を続けている。 「そう、そのことなんだけど……知ってるって? なら好都合だ、教えてくれないかな」  諸肌の白さがほの暗いリビングに淡く浮かび上がっている光景を、各務は快い心持で眺めていた。  彫刻のように整ったシルエットを視覚で余すところなく鑑賞しているうちに先刻交わした車中での問答が蘇り、口元が知らず知らず緩む。  ”俺は女じゃない”と本人が一蹴した通り、敏捷な筋肉を帯びた細身の体躯はどこから見ても青年のもので、女性を彷彿とさせる印象などどこにも見当たらない。  しかし凄艶なまでの美貌、触れれば吸い付く感触を掌に返す白い肌、鞭のように靭やかで無駄のない肢体は、どんな女性よりも各務を男として虜にさせ、溺れさせる魅力に満ちている。  一目見た瞬間から、欲しいと思った。  ここまで己を捕らえ、征服欲と支配欲を掻き立てる存在はついぞ現れたことはなかった。  どんな手段を使ってでも奪わずにはいられず、敵として現れた暗殺者であろうともその心身を我が物にしたいと願い、そして叶えた今、流夏は各務にとって唯一無二の青年であり、この世でもっとも愛おしく大切な者である。  空調が効いていても風呂上りの肌に夜明けの気温は染むだろうと、各務はもうひとつのバスローブを手に、流夏に近付いて肩に掛けてやった。袖を通させてから両腕を前に回して上体を抱き取り、近くのソファへと一緒に腰を下ろす。  流夏も背を預け、自分を護ってくれる男の懐に大人しく納まって会話を続けているが、その相槌には英語やフランス語が混じっていた。  秀子は生粋の日本人だが異国に暮らして長く、表現と語彙を探すうちに欧州語が自然と口を衝いて出て来るため、こちらもそれに合わせているのだった。    以前に流夏が語ったところによると、彼女が女主人と一緒に日本を去ったのが三十歳の時で、以降五十年以上の歳月をずっと欧州で過ごしていると言うことだから、その半生からすれば無理からぬことだと各務も思い、何も知らない人間が聞けば使用言語の不規則さに目を丸くするであろう奇妙な会話を黙って見守る。 「Really?……うん、なるほどね」  何を訊ねているのかは各務も知らないが、真剣になっていた銀色の双眸が鋭くなったことからして、秀子の応答に我が意を得たところがあったのであろう。まだしっとりと湿りを残している鳶色の髪を撫でてやると、流夏が顔を起こしてこちらを向き、会話を紡いでいた唇が甘えるように頬にキスを落とす。当然それでは足りない各務が顎を捕らえざま深く奪い、隠微で密やかな睦み合いに声と息遣いが一瞬途切れた。  男の強引な求めにも流夏は抗議せず、恋情を籠めた微笑を送ってから、手元の通話に意識を引き戻す。携帯の向こうにも伝わったであろう衣擦れの音と唐突な中断に、青年は大丈夫だと補足して秀子の不審を取り除く。 「何でもないんだ、ばあや。とても助かったよ――え、いつパリに来るのかって? それはまあ、いずれ行くよ。嘘じゃないよ、本当だって」  明快に受け答えしていた語調がどことなく曖昧に濁されはじめ、歯切れも旗色も悪くなりつつある。傍で聞いていても押され気味で、弱り切っているのが瞭然であった。 「判ってるよ、でも仕事が忙しいから……ごめんな。うん、今年中には何とか都合を付けて行くよ、クリスマスと年末年始は無理だけど――じゃあ、くれぐれも身体に気を付けて。ありがとう」  まだまだあちらは言い足りなさそうな風情であったが、ほうほうの体で流夏がうまく話をまとめて逃げ切った。携帯電話をテーブルに置いて両手を自由にするなり、男が脇から胴に回している腕に己の掌を重ね、参ったよと溜息混じりにこぼす。 「俺が二年も顔見せてないものだから、たまにはパリに来いって矢の催促だよ。電話が通じたが百年目なんだから」 「二年か。それは向こうも心配になるだろう」 「子供じゃあるまいし……父なんか俺に三年会わなくても連絡のひとつも寄越しやしないよ。まあ別のところから俺の消息は伝わっているだろうけど」 「男親は息子には淡白だからな」  別の所、とさらりと言及されたが、その組織の種類と性質を考慮すれば“ロシアンブルー”の活動内容が知られているのはむしろ当然といえた。  流夏の父ヴィクター=パーヴェル=レヴィノフはMI6と呼ばれる英国軍情報部第六課に在籍して本部長まで務めた諜報部員であり、引退後の現在も依然相談役として英国諜報界に強い影響力を及ぼしている重鎮なのである。
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