第二章

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 かつてヴィクターがMI6に志願した際、当局は彼がレヴィノフ公爵の息子であるという出自に驚くと同時に、非常な難色を示した。  ロシアをはじめ英国王朝ともゆかりがある家柄の高さと確かさ、イートンを経てケンブリッジという頭脳と経歴には一点の曇りもないが、時代は東西冷戦華やかなりし渦中にあり、何代も前に亡命しているとはいえロシア貴族の名と血筋は疑念を持たれない方が無理であった。    しかもオックスブリッジが共産主義者を生育する潜在的な温床だったのはまぎれもない事実で、それによって英国内の情報部は何人もダブルスパイを出してしまったという苦い過去がある。  遡ること数年前、背叛の証を掴んでいながらソ連に逃さざるを得なかった稀代の二重スパイ・キム=フィルビーの記憶はまだ新しく、加えてレヴィノフ公爵とフィルビーが知己であった――公爵は尊敬すべき知人であるだけで、己の東側スパイとしての知行には何の関係もないとフィルビーが証言し、調査によってその言の裏付けも取れてはいたが――ことも、MI6が愁眉を露にする要因であった。  だが公爵自身は息子が選択した道に何らの嘴も挟まず、当時の情報部本部長がパリに飛んで父親の意向を単刀直入に量るという異例の行動に及んでも『息子を、ひいては私を信ずる信じないはそちらの自由であって、私の意志の介入するところではない』と眉ひとつ動かさず言い切った。  聞きしに優る人品器量から息子のそれをも見極めた本部長は特例でヴィクターの採用を決断した。  その果断は間違ってはおらず、以降彼は優秀な諜報員として同盟国のみならず敵国にも名を馳せることとなり、冷戦対決から終結までの激動の時代を見事に乗り切った。  本部長という地位で終わる人物ではないと誰しもが推測していたが、愛妻が病で亡くなったため早々に組織の籍を返上して余生を送るほうを選び、現在はロンドン郊外の館で暮らしている。    彼の一人息子が英国陸軍を退役後に消息を絶っており、それが“ロシアンブルー”というコードネームで暗躍している人間と同一人物らしいということはMI6の最高幹部もCIA同様承知しているが、やはり父の子というべきか肝心のヴィクターは我関せずの姿勢を悠揚と貫いている上、自分たちも後ろ暗い依頼を幾度も託し、頼りにしてきた暗殺者が元本部長の血縁と知れ渡ればそのデメリットは計り知れず、すべて機密として暗黙の裡に揉み消されて終わっている。  しかし、東西のスパイ界で知らぬ者はいないとまで言われ、切れ者ぶりを恐れられたそのヴィクターであっても、秀子にだけは頭が上がらないのだと流夏は断言する。 『ばあやの俺たちの扱いと来たら、まるで五歳の子供相手なんだ』  寝物語に過去を語るともなく語り合うとき、秀子に話題が及ぶたびに流夏は口を尖らせては各務に訴えるものの、聞いている当の男は微笑を禁じ得ない。  襁褓(むつき)を着た、まだ呂律も回らぬ頃からの幼い二人を慈しみ、我が子同様に成人までの面倒を見てきた女性にとっては、彼らがどんな世間的な地位に就こうが、どんなに年を経ようが、いつまで経ってもちいさな子供たちに過ぎないのだろう、と。  青年であってもこれほどに愛おしいのだから、己とほぼ同じ容姿であると流夏が述べる父にしても本人にしても、幼時にはさぞかし人形のような童子であり、秀子や親たちが舐めるように可愛がり愛情を注いだであろうことは容易に想像がついた。  また愛されて育ったからこそ、父子共に仕事では公爵譲りの冷徹と犀利を現しても真の気性は素直で優しく、ばあやを気遣い愛しているのだ。彼女に心配を掛けないために職業の詳細は教えず、ヴィクターは”政府機関”勤務、流夏は”事業”を興しているとだけ説明しているように。  先刻の国際電話でも相変わらずの子供扱いだったもので降参した表情を見せてはいるが、懐かしいばあやと接して昔に戻った笑顔は無邪気で、可愛さのあまり各務が後ろから頬を寄せて耳朶に唇を寄せると、流夏はもっと寄り添いたいとばかりにこちらの肩に両腕を回して来た。 「あのさ皓、ばあやと話している時に思い出したんだけど」 「何だ」 「祇園に美味しいコーヒーとシフォンを出す店があるんだ。今度案内するから一緒に行こう」 「コーヒーは有難いが、甘い物は御免だぞ」 「判ってるよ……」  眉をしかめる男に、流夏はくすくす笑いながら承知を囁き、先刻の接吻の続きを誘う。  流夏がスイーツ類に免疫があるのは、秀子を始めとする使用人たちに小さい時から手作りのデザートを始終振舞われたからであるということを各務も理解しているから、青年が何を食そうと苦笑するにとどまるが、実際は菓子を眺めるのも避けたいくらいだった。  けれども流夏にだけはその法則を適用外とするのも、引いては彼への愛情ゆえだった。  深く、強く、幾度も舌を絡め、息を継ぐ隙すらも許さないほどに追い詰め合う濃厚な交わりの後に、ようやく影を二つにする。  潤んだ銀の双眸を射抜くように見つめ、うっすらと紅潮している目元をそっと指先でなぞってやりながら、各務は唇を緩めた。 「弁護士芝居の収穫はコーヒー店の情報らしいな」 「収穫はそれだけじゃないんだけどね。とりあえずその店を教えてくれたのは善良な市民の、偶然の好意だよ」 「ほう。善良な市民が行く店に筋者が入っていいものか、迷うところだ」 「コーヒー飲むだけだから大丈夫だよ。斉藤さんたちが付いて来るとさすがに拙いけど」  二人同時にその情景を想像し、声を揃えて笑った。  黒服を着た律儀な極道たちが喫茶店に集結すれば、さぞかし店の者や客たちは困るだろう。  店の構えからして背後に暴力団が経営している影はなく、構造的にも何があっても対処しやすく安全性は高いと青年はプロの目で説明し、次の機会に各務を案内する約束を無事取りつけることに成功した。  まだ夜明けには時間があるからと、それから並んで仮眠を取った各務と流夏は昼過ぎまでゆっくりと部屋で過ごし、危険と隣り合わせが茶飯事というあわだしい日々の狭間に得た逢瀬を心行くまで楽しんでから、それぞれの日常へと戻って行くために別れた。
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