第三章

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「先生、間違いのう、御堂筋の久松商事ですか。冗談を言うてはるんやないんですな」 「間違いはありません」 「そこがどういう所か知ってはるんですか、先生。そこに知り合いが居てはると言うんですか」 「そうです」  夫の矢継ぎ早の難詰に対して、青年弁護士も一歩も引く様子はない。  妻の自分ですら怖くなるほどの保明の語気に動じない青年の度胸に佐絵は感嘆すら覚えつつ、どうしたのと宥めた。 「あなた、その久松商事ていう会社を知っているの」 「知ってるも何もあらへんで、佐絵。お前は京都の出やから知らんのやろうが、御堂筋の久松商事言うたら瑞邦会の持ち物なんや。あの一帯に詳しい奴なら知らん者はおらん。俺かて道路工事で御堂筋に行った時にあそこをヤクザが出入りしとるのを何度も見とるんや、間違いはない」 「えっ、瑞邦会……!」  いかな世間に疎い佐絵と言えども、抗争や事件で常にマスコミに取り上げられる関東最大の暴力団組織の名は聞き及んでいる。その名を口にするだけで憚りがあるように思われ、とっさに両の指先で口元を覆って息を止めた。  義母と暴力団が繋がっていると言ってのけた当の沖田弁護士もまた裏社会に関わっているとはと、未知の恐怖に対する身震いが走ったが、しかし相手は夫妻の警戒を取り除くかのごとく、美しい唇をさらに緩めて穏やかに言葉を紡いだ。 「たしかに私の知人は瑞邦会に所属する者ですが、私のたっての頼みを聞き入れ、会を挙げて健君たちを保護するとの確約を取り付けています。なぜ私が久松商事を選んだかと言うと、大谷組が手も足も出せない場所は関西でそこしかないからなのです。警察に訴えたところで、転ばぬ先の杖までは提供してくれませんから」 「………」 「貴方がたからすれば得体の知れない人間の集まりであろう暴力団に、幼いお子様たちを預けるのは心安からぬことであると重々承知しております。しかし彼らは彼らのルールがあり、お二人を始めとしてお子様たちにも危害を加えるようなことは絶対にありません。瑞邦会が健君たちをお預かりしている限り、その身の安全は知人と私がお約束いたします」  保明は渋い面持ちを崩さず、顎を引き締めた状態で言葉を発そうとはしない。組んだ腕の掌はシャツを固く握り締め、どうすべきかと逡巡しているようである。その横で佐絵もうつむき、おいそれとは承諾を渡しかねる提案に頭を悩ませた。  この青年弁護士は蘇我に掛かった患者のプライバシー侵害を調査し、向後の被害を出さないようにしていると語っていたが、その調査の一環で出会ったに過ぎない自分たち家族に彼がどうしてこうまで多大な力を貸し、肩入れをしてくれるのかが判らない。突飛な手段だと説明してもらってはいたがよもや暴力団の力を借りるとは予想もしなかっただけに、種々の困惑は倍となって彼女を襲っていた。  けれど今まで接して来た沖田の言動は誠意あるものであり、莫大な額面を要求するでもなく、騙し陥れるという悪意もどこにも感じられず、心底から自分たち家族を助けようとしていることは疑いを入れない。  暴力団と知人といえども、弁護士という職に就いているという先入観的な信頼もあり、センターで要請されたようにやはりこの方を信じようと心の中で意を固めた。託しても揺るがない絶対の安心感が彼にはあったからだ。  夫にも自分の意見を伝えようと顔を上げると、保明の強い瞳はすでに何かを推し量るかのように己に注がれていた。妻の表情から意を察した彼は、お前もかとうなずき、青年に向き直った。 「ほんまは、自分らで健たちを護れたらこれに越したことはないんです。せやけどヤクザ相手やったら俺らには力が足りへん、先生の言わはる通りです。先生のお知り合いにお願いしてもええでしょうか」 「お願いします、先生」  夫婦で深く頭を下げる二人に、流夏も彼らを説得し得た手応えと共に頭を下げて答えた。 「承知いたしました。循環器病センターの三輪先生には私からもご説明致しますが、貴方がたから健君の一時的な外出許可をお願いして下さい。久松商事までの移動用の救急車はこちらからセンターに差し向けますので」 「二人で久松商事に行かせて下さい。先生の推薦やから大丈夫とは思いますが、お知り合いに一度お会いしていきたいんです。失礼なこと言うてすんませんが、子供たちを預ける訳ですから」  保明の真摯な頼みに、流夏は親としてさもありなんと心中深く納得し、もちろんだと告げた。 「その方が安心でしょうし、知人にもお二人に挨拶させましょう。では日取りについてはまた後日改めて」  久松商事で保護する際の大まかな流れについてさらに二、三の説明を加えて打ち合わせた後で、流夏は勇太の明朗な笑顔と夫妻の礼に送られて加藤家を去った。
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