第三章

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 流夏が循環器病センターまで赴き、先般話した通りの事態により健の外出を許可願いたいと三輪医師に申し込んだところ、相手は快く承諾した。親権問題が落ち着くまでは園衛家からの圧力がセンターにも掛かるかも知れないからと、遠回しながらも真相に近い巧妙な説明を保明が主治医にすでに行っていたため、話はすんなりと決まった。  ただし主治医として健の容態は気になるので、最低でも日に二回の報告を送って欲しいとの条件がなされ、流夏はもちろんそれを受けた。翌日にでも搬送用の車を用意すると続けて申し出ると、三輪は品の良い顔に不思議そうな微笑みを浮かべた。 「昨日、K大の香取先生から連絡がありましてね。『沖田先生からの頼みで自分がしばらく健君をお預かりすることになるから、よろしく』と言われた時は、正直驚きましたよ――香取先生をご存知とは、お若いながら貴方はかなり顔の広い方ですね」 「正確には知人の紹介でして、直接の知り合いという訳ではありません。ですがやむを得ない事情でどうしても健君を転院させる必要があるため、無理をお願いしたのです。三輪先生にもこの度はご迷惑をお掛けして申し訳ございません」  声音穏やかに物腰低く謝罪を述べる流夏に対し、三輪はとんでもないと答えた。 「渡米前ですから、なるたけ穏便にすませたいとの加藤さんたちのお気持ちも判りますし、どうかお気遣いなく。健君についての詳細は紹介状という形でまとめてありますので、香取先生にお渡ししましょう。あの先生ならば健君を安心してお任せ出来ます」  人の生死の最前線で幕間を観続ける医師は、その狭間でこそ露になる剥き出しの極限を数え切れず目の当たりにして来ているだけに、こうした血縁同士の諍いに接するのも初めてではないのであろう、今回の件でも下手に口を突っ込んだりすることもなく、実に捌けていた。  話の判る相手で助かったと流夏は改めて思いつつ礼を述べ、三輪と別れてそのままセンターを去ろうとしたが、己に注がれる視線を察するなり立ち止まる。  すると、左斜めの後方の廊下にアンドリュー=ブラウン記者が佇んでいるのが視野に入った。  流夏が気付いたことを向こうも悟ると、自ら場を離れてこちらに近付いて来て、遠慮がちに身を屈めた。 「沖田先生と言われましたね。不躾で申し訳ないが、少しお話したいことがあるのです」 「No problem,I speak English.」  英国訛りの鷹揚な英語で返すことでそちらに合わせるとの意を伝えた弁護士の反応はまったくもって思い掛けなかったのだろう、アンドリューは大仰に目を瞠り、面食らったことを隠そうともしない。 「これは失礼しました。では、ご厚意に甘えて」  日本語で礼を述べた後、人のいない所で話したいとのアンドリューの希望が英語で引き続いて明らかにされる。  流夏もそれを承諾して、二人はいったんセンターの外に出て敷地内の歩道を歩き始めた。 ※ ※ ※  冬の来訪を色濃く漂わせる冷気は病院の建家をも覆い、外から眺める流夏の目に白く高い外壁を一層寒々しく見せていた。昼を過ぎた陽光にもかかわらずどこか物悲しさを覚えさせるのは、真冬へと急ぎ去る雲模様のためであろうか。  痩身を風から守るように縮めたアンドリューは羽織っているジャケットの前を掻き合せつつも、語彙を選ぶようにしばらくは無言だったが、そぞろに足を運びながら思い切ったように口を開いた。 「加藤さんたちからお聞きかも知れませんが、私は仕事の際にご一家と知り合い、以来職務上というだけでなくプライベートでも懇意にしています。きっかけは二年前、私が取材していた支援団体に、保明氏が健君のことで相談に見えたのが始まりです」 「そうでしたか」 「佐絵さんや勇太君ともすぐに親しくなり、取材を申し込んだことはなかったが、近しい知人として健君の動向を気に掛け、見守って来ました。費用や健君の病態という問題はあったにせよ、渡米予定までの道程は滞りなく進んでいただけに、貴方という弁護士を突然加藤さんが連れて来られたことが気になったので――」  先方が触れんとしているその先の言を流夏は汲んだ上で、短く訊いた。 「ご夫妻は貴方に、私のことについて何か話されましたか」 「いいえ、あれからお会いしていないので。ドクター蘇我がドクター三輪を訪問なさっていた所から、その辺りかと想像しているだけです」 「ならば私が何をかいわんやです。申し訳ないが、貴方がいくら親しいご友人であろうとも、加藤夫妻のプライベートに関わることを私からご説明する訳には行きません」 「………」  穏当ではあるが断固とした響きの籠もった拒絶に、アンドリューは始めから判っていたが、一抹の望みに縋りたかったという思いが明らかに混じる溜息をひとつ押し出した。 「そうですね……。すみません、変事の兆候を嗅ぎ回るジャーナリストの悪い癖がつい出てしまったようです。非礼をお許し下さい」 「その謝罪は私ではなく、加藤夫妻にお願いします。私は職務を行ったに過ぎませんので」  少年の日の紅を残影に留めたような、物憂さを時折漂わせる唇の優美とは掛け離れた言の連続は、調和に慣れた日本人相手であれば怯みを覚えたかも知れないが、それこそが西欧の合理思想には適ったのであろう、アンドリューは微笑した。
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