第三章

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 香取医師と看護師一人が乗った救急車が循環器病センターを訪れたのは、青年弁護士から健兄弟の保護を申し込んで三日後の夕方だった。  夫婦と勇太は、三輪たちと一緒にセンターで香取を迎えた。  医師同士が外で挨拶を交わし、三輪が紹介状を香取に渡すところを見守った二人は、主治医に侘びを改めて述べてから香取医師に向き合った。  健は慣れた病院を離れることに不思議そうにし、病室の友達と別れることが寂しいようでもあったが、義父と母が久しぶりに揃った光景に心和むのか、大人しい笑顔を見せた。香取は健の手首の脈を確かめ、気掛かりな兆候がないのを確かめてから車内に入れるよう指示する。 「はじめまして、K大胸部外科の香取と申します。国内では主に成人を担当しておりますが、アメリカでは小児心臓血管外科部門に所属しておりました。どうぞ宜しくお願いします」 「こちらこそ宜しくお願いします」  K大の準教授と沖田から聞かされていた二人は、有名大学の先生というからにはさぞかし謹厳で近寄りがたい人物であろうと予測していたがさにあらず、年齢は四十代前半、肩まで届くか届かないかの長髪を後ろで一つに纏めてフレームレスの眼鏡を掛けた姿は大層若々しく、学者というよりも舞台俳優を感じさせる雰囲気の人物で、顔にこそ出さなかったものの面食らってしまった。  だが大柄な長身を窮屈そうにこちらに屈める格好はどこか子供っぽく、やはり狭い学術社会で生きる人だと遅れて察せられる。 「久松商事に運ばれるなんて、お二人とも、とんでもないとお思いになったことでしょうね」  整った顔立ちをにっこりと綻ばせながらさらりと発された質問に、佐絵も保明もその通りだとは言えず、さりとて違うとも嘘も吐けず、つい返答に詰まった。そんな夫婦と、こちらを物珍しそうに眺めている勇太の三人を代わる代わる見渡してから香取はさらに気軽な口調で続ける。 「私もヤクザ相手は首相や大臣から頼まれようとお断りなのですがね。しかし従兄弟がいるとあれば、そうそう無視も出来ないものでして」 「えっ、従兄弟?」 「はい」 「あの……先生の、お従兄弟さんが、ですか……?」  聞き間違いか冗談ではないだろうかと、夫婦がしどろもどろに訊ねると、沖田弁護士から話は来ていませんでしたかと香取は真面目に驚いた表情を返した。 「沖田弁護士が庇護を頼んだ会の人間とは、私の母方の従兄弟なのです。今ごろは久松商事で沖田先生と一緒にこの車の到着を待っているでしょう」 「ええっ!」 「あいつにこき使われるのはご免ではありますが、私を必要としている患者さんのことが最優先です。それにあいつと会に任せておけば貴方がたは警察よりもはるかに確かな組織に護られていることになります、大船に乗った気でいて下さって構いません。沖田先生はなかなか物が解った方だ」  大学病院の医師でありながらヤクザを警察よりも上位と朗らかに言ってのけ、従兄弟に関して涼しい顔で意見を吐く香取に、夫婦はあっけにとられて顔を見合わせた。  まったく沖田にしろこの医師にしろ、自分たちのまっとうな一般社会の規範の塀から外れているというか、知らなかった外堀を嫌と云うほどに知っている者たちらしいと、別世界の住人であるかのように香取の横顔を見つめたが、当の本人は再度飄々とした笑顔になってから、救急車に乗り込んだ。 ※ ※ ※  救急車と後を追うタクシーが久松商事の裏口に停まったころ、周囲は早い夕暮れに包まれており、ことさら人目に留意する必要はなかった。  看護師と香取がストレッチャーを導いた先の扉が開くと、そこには五人の黒服の男と看護師二人、色使いの華やかな衣服を身に付けた中年女性二人が待ち構えており、加藤夫妻と医師が足を踏み入れるなり一斉に辞儀で迎える。その奥にはダークスーツを纏った長身の男と青年弁護士が佇んでいた。  前者の洗練された顔立ち、隙のない気配は白刃の険を感じさせるが、漂う気品で緩和されている。  襟の金バッジを確かめずとも上に立つ者の威は自ずと滲んで誰の目をも誤らせることはなく、保明も佐絵も、長身の男こそが沖田の知人であり香取の従兄弟であると悟った。  男は無駄のない身振りで進み出て、こちらへと真っ直ぐ歩を進めて来たが、佐絵は極道を前にしながら、怯えることすら忘れていた。
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