第三章

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 キタのクラブで働いていたころ、それこそ三下でしかないヤクザたちは数え切れないほど目にして来たが、彼はそのいずれでもなかった。並列に論じることすら愚かであった。下部組織の者は一生掛かっても顔を見ることも出来ないくらいに高い地位の男であると、彼女の洞察力にすら明白であった。  男の歩みは確かに獣のそれと同一であり、出会う者を屈服させる存在感と野生を有していた。恐怖さえも忘れ凌駕させる迫力に、ヤクザ者とはこうしたものだと世で作り上げられた想像の矮小を思い、極道という人種の凄まじさを見た思いだった。  呆然と立ち尽くしている佐絵と傍の保明に、瑞邦会の各務だと男は名乗り、お二人の子息を預からせていただく者だと静かに綴った。 「当人からすでにお聞きかも知れませんが、香取は私の従兄弟に当たります。見た目はあのようにいい加減だが腕は立つ男です、ご安心下さい。それから看護師三人の他、こちらの五人の男と、二人の女をお子さんたちに付けさせます。女はいずれも子を育てた経験のある者ですので、下のお子さんの面倒を見る際も不手際はないかと」  この言を聞いてから、保明たちは魔法が解けたように我に返り、あわてて頭を下げた。 「加藤です、何から何まで、この度はほんまにありがとうございます。これも沖田先生のお陰です」 「とんでもない。お子さんたちと離れているのはお気掛かりでしょうが、しばらくご辛抱下さい。その間に、これ以上お二人を園衛夫人や蘇我教授が煩わせることのないよう、私が全力を尽くして先方と交渉いたします」  青年の確約を聞いた佐絵は、縋るように声を絞り出した。 「この子たちをどうか、どうかよろしくお願いします」  床に膝を突いて伏せかねんほどの母の姿に、各務は己たちの力の及ぶ限りと協力を約束し、手を軽く上げて合図した。ただちに男たちがストレッチャーに寄って周囲を固め、夫婦の前には二人の女が淑やかに立った。  細作りの身に地味を作っていても水に研がれた気風は隠せるものではない、一時期といえど水商売を経験している佐絵は、彼女たちもまたそれを生業としている女性であることを知ったが、化粧を控えた美しい顔にはしっかりと落ち着いた気性が窺え、子供を託するに当たっての安堵をもたらした。    見知らぬ大人に囲まれた初めての場所でも物怖じもせず、父の腕の中でくるくると目を丸くしながら好奇心一杯の勇太に、女性の一人が穏やかに話し掛ける。 「坊や、お名前は?」 「ゆ……う……」  普段両親から呼ばれて覚えたおのが名を片言で喋ろうとする童子に周囲は微笑を誘われ、和んだ空気に満たされる。 「ゆう君、なの?」  畳み掛けられても上手く形に出来ず、ママと甘える息子の主張を佐絵が引き取った。 「上の子は健と言いまして、三歳になりました。この子は勇太で、一歳二ヶ月になります」 「健君と勇太君やね。勇太君、パパとママは忙しいから、残念やけどしばらく会えへんねん。せやからお兄ちゃんも勇太君も、おばさんたちと一緒にここに居ろうな? どう?」 「………」  健も勇太も親と離れなければならないことは判るのか、少し顔色が曇る。  話しかけた女が手を伸べて勇太を抱くと、両親の顔色を敏感にも読んだ子供はどうしたらいいんだろうと言いたそうな、困った顔を見せる。  無心な所作だけに我が子たちが愛おしくも不憫で、佐絵はご免ねと言いながらストレッチャーに身体を預けている健の髪を梳き、勇太の頭を撫でた。 「時々会いに来るからね。皆さんを困らせんと、大人しゅうええ子にしとくんやで。判った?」 「ウン」  名残惜しく子供に言い聞かせる妻のすぐ横に保明も立ち、同様の言葉を掛けると、いつまでもおったらかえって迷惑やからと促した。  佐絵はタオルや着替え、紙おむつ等の道具が入ったバッグを女たちに渡し、今後を頼む挨拶を全員に繰り返すと、夫に肩を抱かれるようにして裏口から去った。  大好きな両親が自分を置いて出て行く背を目にした勇太は早速泣きべそを掻いてむずかり始めたが、そこは子を扱い慣れた女二人、すかさずあやして宥めつつ上階に設けている勇太用の部屋へと連れて行き、健はその隣の、急遽設備が揃えられた病室へと看護師たちの手で運ばれ、五人の男も続いた。
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