第三章

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 後に残ったのは各務と流夏、そして香取だったが、人影がいなくなるなり、香取は従兄弟を渋い顔付きでじろりと睥睨する。 「おい皓、人が大人しくしてりゃ何だあの言い草は。見た目がいい加減で悪かったな」 「俺は事実を述べたまでだ、靖彦」 「これでも患者さんにはなかなか評判がいいんだぜ、俺は。歴代の看護師長にもな」 「首からぶら下げた大学病院のIDカードの恩恵にすぎん。それを外した今のお前は充分胡散臭い。唯さんにも外見が信用に繋がるとさんざん躾けられてきたろうに」 「はっ、胡散臭いか。筋者のお前にだけは金輪際言われたかない台詞だ」  くさったように眉をしかめる態度は言うほど不快を示してはおらず、心置きないやりとりだからこそ流夏にも二人の交誼の程度が窺える。  香取という医師は自分の母方の従兄弟だと各務から教えられたとき、だからあのように遠慮のない物言いをしていたのかと流夏も納得したものだが、血筋というものは争えないと、二人を眺めて思った。  医師と、極道。  世間の尊敬を一身に集める人間と、憎悪と敬遠のみ受ける人間。  正反対でありながらも容姿気質共にこれほどに共通項を保っている二人もいまい。  時として従兄弟という血は兄弟よりも近似をもたらすものだが、その法則は彼らにも当てはまるものらしかった。  額から流すように髪を整えている各務の横顔と、いかにも外科医らしく、前髪が中途半端に額に掛かるよりはと後頭部で括っている香取の横顔は、並べて視野に収めてみればまさに近しい血を表していた。 「お前のくだらん文句は後で聞いてやるとして、あの健という子は大丈夫なのか。かなり顔色が悪いように見えたが」  上階の社長室へと二人を導きながら真顔に戻った各務の質問に、香取も同様の顔付きになると、大丈夫だろうと答えた。 「容態は安定しているからな。金に糸目は付けないとこちらの山内氏に言われていたから器材も最新鋭の物をレンタルしたし、看護師たちもベテランばかりだ、よほどの急変が起こらない限りは持つよ」  部屋に入った各務はいつもの事務机に、流夏は革張りのソファに腰を下ろし、香取も遠慮なく長い脚を伸ばしてその向かい側に座を占める。斉藤が用意していた温かい茶を三人がめいめい口にして一息吐いていると、控え目なノックの音が聞こえた。 「築地です」 「入れ」  子供の面倒を見ている女の名と声を確認した各務が許可を出すと、最初に勇太に声を掛けた女性が空気を乱さぬよう、扉の隙間を縫うがごとく入って来た。 「お邪魔いたしましてまことに申し訳ございません。実は加藤夫妻からお預かりしましたバッグの中に、これが」  立ち上がった各務が築地の前まで歩き、両手で捧げられた白封筒を受け取って仔細を確かめれば、中には新品の一万円札が十枚と、几帳面な書体で綴られた女文字の手紙が入っていた。  宛先は特に明記はされていないが、瑞邦会を始めとする人々に宛てたものであることは目を通せば瞭然であった。  ――折り目正しい時候の挨拶の後に続いて、元の嫁ぎ先であり、健の血縁でもある園衛家との確執は本来であれば自分たちで対処すべきであるのに、見ず知らずの人々に迷惑を掛けることを夫婦共に心苦しく思っているとの侘びと、助力に対する感謝の念が丁重な言葉遣いで書かれている。  同封の十万円は、分別も付かぬ幼い勇太なれば世話をする人々の衣服を汚したり、夜遅くまで眠らずに不便を掛けることもあろうから、そうした折の皆の用向きに充てて欲しいとあった。  直接渡せばきっと辞退されるであろうと思い、非礼を承知でこのような方法を取ったことの謝罪と、健の面倒を見る香取を始めとした人々への礼は機会を改めて行うつもりである旨が婉曲に表現され、どうかくれぐれも子供たちを宜しく頼むとの結び言葉を最後に、手紙は終わっていた。 「一歳少々の子供が何をしようと、掛かる金などたかが知れていると言うのに」  読み終えた各務は痛ましそうに眉根を寄せて加藤夫妻の遠慮に呟きを落とし、手紙はそのまま預かると、封筒はバッグに戻しておくよう命じた。 「今のところは受け取っておこう、だがこの金には手を付けるな。私が渡した金だけを使うように三木にも言っておけ。それで、子供はどうしている」 「夕食を食べさせています。一緒の部屋に男衆が二人おりますが、怯えもせんとにこにこして、ほんまに人懐こい、手の掛からん子ですわ」 「そうか、判った。あの子に何かあればすぐに私かこの二人に連絡をしろ」 「かしこまりました」  女は再び封筒を得ると、一礼して音もなく下がった。  三人になった所で各務は流夏の隣に座って二人にも書状を見せたが、読み下したあとの二人の表情は、いずれも先の各務と同じ感情を示していた。  香取は重い溜息を吐いて、若いのに今時珍しい夫婦だなと感想を漏らした。
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