第三章

8/14
前へ
/100ページ
次へ
「病気の子を抱えては、共働きと言ってもこれだけの金を工面するのは決して楽じゃないだろうに。まして移植手術を控えているとなっては」  従兄弟に各務も同意の相槌を打ってから、流夏に向き直った。 「母親は前は玄人だったように見えたが、違うか」 「いいや、違わない。園衛から離婚させられて今の保明氏と結婚するまで、彼女は息子の入院費用を貯めるために一年ほどキタで働いていたんだ」  合点が行ったように、香取が顎に手をやって大きくうなずいた。 「なるほどな。水商売をしていた風な跡が彼女にあるから不思議で仕方がなかったんだが、そういうことだったのか」  どうやら医師の方もそれを察していたらしく、地味な佐絵が夜を勤めていたことを驚くどころか、納得する始末である。  手紙を折り畳んで各務に返した香取は腰を上げ、それでも移植の路が残されている健は運が良かったと言った。 「自分に合うドナーが現れるかという問題もさることながら、レシピエント側の移植適合性や症状によっては、手術に待ったが掛けられることもあるんだ。無論、ドナーが見つかって手術に成功すれば後はスムーズって訳でもなくて、拒絶症や合併症と、難題は数え切れないけどな――兄弟の長い看病生活で心労も溜まっているところに、元の旦那と姑が嘴を挟んで来ていれば頭が痛いどころの話じゃないだろう。それに蘇我教授は腕はいいが同業者の間じゃあんまりいい噂は聞かないものでね、そういう意味でもここに移した判断には諸手を挙げて大賛成するよ」  慣れた手付きで紺色の医療用ユニフォームのポケットに左手を突っ込み、香取はにやりと流夏に笑って見せると、姿を消した。 「渡米まで時間がないとなると、向こう側にもこちら側にも、文字通り正念場だな」 「そうなんだ。ここを嗅ぎ付けられるとすれば、加藤夫妻が出入りしている場を大谷組に見られることだと思う、皓。二人にはあまり来ないよう言い含めてあるけど、それでも親にしてみれば様子を知らないと心配に違いないからね。そうやって場所を知られれば、今度はここの警備を破る隙を探られることになる。気を付けて」 「侵入口は玄関しかないな。園衛が絡んでいるならおそらく木嶋が仕掛けて来るだろうが……建家を出入りする時は特に用心するよう、全員に注意しておこう」  流夏は嫣然と微笑んだ。いかにも満足気に。 「俺もそれを言いたかったところなんだ。あんたのことだから俺が心配することもないだろうけど、油断はしないで」 「判っている」  事もなげに唇を歪めた男は、流夏の髪を優しく撫でた。  瞳に口付けたくとも恋人がフレームレスの眼鏡をしているために叶わず、頬を指先で辿ってやるのが精一杯だったが、流夏は各務の掌に己のそれを添え、瞼を伏せながら唇を押し当てた。わずかな所作であろうとも、想い合う者同士に取っては意思疎通には充分であった。  距離を詰める動作にも躊躇いはなく、語る声は自然と低くなる。 「ねえ皓、どうして佐絵さんが夜の勤めをしていたって判ったんだ? 美人だから?」  自分は調査で把握したのにと正直に白状する問いに対し、男は笑いを口元に含んだ。 「この商売をしていれば夜の女は嫌というほど接する、短期間であっても経験を経た女は判るものだ。もっとも彼女はその気配がほとんど抜けているから、お前が判らないのはむしろ当たり前だ。確かに珍しいくらいの美人だが、あれほどの容姿でキタに一年勤めても俺の耳に入らなかったのだから、少しでも稼ぐために場末を選んでいたと見えるな」 「ふうん……。やっぱりそういうことには詳しいんだね、皓。あの築地って人も三木って人も美人だし」  声にいささか尖りが潜み、目元はきりりと弓を絞ったように鋭さを増す。隠そうともしない嫉妬は、逆に各務を愉しそうに微笑ませた。 「妬いているのか、流夏」 「別に」 「言っておくがあの二人は舎弟の女たちだ、俺が手を出す筋合じゃない」 「じゃあそうじゃない女たちには手を出してるってことじゃないのか」  本人も揚げ足取りと理解していても、落ち着かない苛立ちは口にしなければ我慢出来ないとばかり、口惜しそうに返す。  いつも外を出歩いて顔を見せることもめったにないのに、今はせっかく懐に落ち着いているこの可愛い猫を怒らせるのは各務の本意ではなく、そんなことはないと否定してやった。  もとより流夏以外の存在に心を移すことなどありえない話。  逡巡のない断言を耳にした青年が、本当に?と念を押して来た。当たり前だと答えれば、流夏の顔がたちまちに綻んだ。 「なら、いいよ」  現場を目撃された訳でもなく、単に質問に答えただけである以上、そもそも赦されなければならないこと自体が存在しないが、男は許容した。  これもひいては己への恋慕ゆえの妬心であるからには、言い立てる道理も意欲も皆無だからだ。  いつまでもこうして刻を過ごしていたくとも、差し迫った状況が許さない。 流夏は自分から各務の頬に軽く口付けると、仕事があるからと立ち上がった。 「これからはしばらく逢えないと思う。子供たちを頼んだよ」 「ああ」  言葉を返しざま、男はソファを離れようとする青年の手首を掴んでぐいと引いた。会得している体術からすれば避けるのは容易い技でありながら、流夏は逃げようとはしなかった。  柔らかく男の懐に頽れ、眼鏡を外されて深く接吻されるに任せ、自らも強く腕を回して応えた。  短くとも烈しい接吻の後で各務の手から眼鏡を取り戻し、あわただしい別れを交わした際の流夏は優しい笑みだけを湛えていたが、外の駐車場に下りてシボレーに乗り込み、目的地へと向かう彼の表情はすでに酷薄な暗殺者のものへと戻っていた。
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!

528人が本棚に入れています
本棚に追加