第三章

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 勇太は一日もしないうちに、すっかり瑞邦会の人々に慣れてしまった。  添い寝もおむつ替えもしてくれる優しい築地や三木はもちろんのこと、黒服を着たいかつい男たちにも機嫌よく笑い、遠慮なく服を引っ張って遊び相手に加えるなど、物怖じしない幼児相手にはヤクザも形なしである。  各務から子供の癇を立てぬよう強く厳命されているため、皆も物柔らかに接しているが、それでなくとも二人とも人見知りもしないため、その愛嬌を前にして冷たく当たる大人たちが居ようはずもなかったのである。    佐絵は子供を預けた翌日、パートの帰りに久松商事に立ち寄った。  健も勇太もしっかりと保護され配慮されているのを見ると、暴力団と呼ばれ恐れられる人々であろうとも決して血も涙もない人非人ばかりではないのだと、新しい目が開けた思いだった。  同時に、世に園衛の方とかしずかれ、実の祖母でありながら健たちを侮蔑した操との違いに暗澹とせざるを得ず、人というものの真実は外聞や地位だけでは判らないと改めて痛感もしたのである。 「ママ」  二十畳のカーペット敷きの部屋に案内された佐絵の目に、若い大柄な黒服の男に抱かれた勇太の笑顔が飛びこんで来た。バッグの中に入れてあった例のスカーフを短く襟に巻いてご満悦の様子である。  視線を巡らせると、部屋の片隅には布団が畳まれ、ぬいぐるみやおもちゃが至るところに散乱していた。    子供は正直だ、少しでも辛いことがあれば態度や表情に表れる。  しかし今の勇太にはそのような様子は微塵も見当たらず、いつもと変わらぬ我が子であり、母への呼び掛けも明るいものだった。常時と違う託児所に来たように捉えているのかも知れない。  長い髪を結い上げ、地味だが小粋なカットソーとチノパンツを纏っている築地と三木に挨拶してから、夜泣きとかしたりしまへんでしたかと問うた。 「いいえ、もうほんま大人しゅうしてはりましたよ。勇太君は、こちらの和泉はんが特にお気に入りの様子ですわ」  美しいうりざね顔を微笑みに変えて三木が話題を振れば、明らかに子供慣れしていない独身の若者が、苦笑気味に勇太を抱えなおした。  殊勝によそ行きの態度をしてはいるが元気な男の子、子犬のように始終身動きを欠かさない。人様の子供を取り落としてはいけないとばかり、和泉の肩にぎこちなく力が入っているのが傍からもありありと判る。  佐絵は彼から息子を受け取ってあやしながら、多分と答えた。 「この方は主人に背格好が似てはりますので、それで余計に懐くのかも知れまへん」 「まあ和泉はん、聞いた? 勇太君のお父さんに似てはるなんて、名誉な話やないの」  三木にからかわれ、和泉は角刈りの頭を掻いている。  美しい女性にもてている訳ではないものの、あどけない子供に慕われるのは動物に懐かれるのと同様、まんざらでもなさそうである。  ママ、と指差す先には、子供用のおもちゃの車があったので、佐絵は腕を下ろしてそれに乗せてやった。  さっそく両足で床を蹴り、鼻息と声でエンジン音を真似して走り回る仕草に、場の大人たちは爆笑した。 「勇太君は大きゅうなったら走り屋になりそうやね」 「男前の走り屋はごっつモテますで」  ダークスーツの足元にぴたりと停まり、付き合わせてやると言わんばかりの幼児の得意顔に見上げられ、俺も乗せてくれるんかいなと言いながら和泉はそろそろと車の後を追い始める。    そんな二人を眺めていた築地が、あの臙脂のスカーフは貴女の物ですかと訊ねて来た。朝、バッグから服を選んで取り出そうとすると、絹の布地を見付けた勇太が離そうとしなくなったのだという。  佐絵は、元は弁護士の所有であることを説明した。 「先生がうちにいらした時に、襟に巻いてはって。綺麗な色やからでしょう、勇太が欲しがったので、先生が気前良く下さったんです」 「あれはええ品ですわ。子供は色や肌触りに敏感やから、すぐに気に入ったんでしょうね。うちの子も小さい頃は色目のはっきりした、上等の着物や洋服ばかり私の箪笥から選んで触り回っていましたわ。他になんぼでも涎を付けて構へん物が転がってるいうのに」  自分が勤めていたのとは桁が違う、一流のクラブで職を張っていると窺える女性であれば、”上等”と表現した品がどれほどの値打ち物かは佐絵も想像が付く。それだけに、嘆息気味にこぼす築地の言葉には母親同士の苦労として同調し、どちらからともなく声を揃えて笑っていた。  どう見ても女物のスカーフだからてっきり母親の持ち物かと考えていたのだと築地は続け、しかし出所が若頭の知己であると聞いても納得が行くと語った。  青年弁護士の端麗な容姿からすればたとえ女物の品であろうとも違和を覚えさせないからこそ、佐絵にもその得心が理解出来た。  しばらく三木や築地と話して心を合わせた佐絵は、一旦勇太に別れを告げてから隣の部屋へと入った。  循環器病センターと似たような器材が周りに並んでいるベッドで、健は看護師のひとりに大きな絵本を読んでもらっていた。  小児科あるいは胸部外科勤務の看護師を付けていると聞いていたがなるほど三人とも落ち着いており、病院慣れしている佐絵にも熟練の人々であると映る。  香取は先刻取った心電図を椅子に座って睨んでいた折で、佐絵の訪問に会釈しながら立ち上がった。 「こんにちは、加藤さん。お仕事からお帰りですか」 「はい、今日は早めに終わったので。健はどんな具合でしょうか」 「実はその事なのですが、少し宜しいですか」 「は、はい」  『ママ、お帰りなさい』と健気に笑う息子の頭を撫で、ただいまと答えた佐絵はその手を握ると、香取に導かれて廊下の奥へと出た。  すぐに話の内容を知ることが出来ると判ってはいても、医師が無言で廊下を踏み締める革靴の音が耳にひどくこだまして、不安を刻一刻と募らせる。  誠の時も、健の時も、幾度もこうやって辛い宣告を受けて来た身に取っては、座を離して語られる話は不幸なものでしかないという諦念が先に立つ。  徐々に差す影に足が竦みそうになりながらも、佐絵はどうにか香取の後ろに付いて行き、相手が口を開くまでの長い――実際は数分も経っていないのだが――時間を過ごした。    外が見える窓際に佇んだ香取は、早い夕暮れにちらと横目を走らせて間を置いてから、何気なく切り出した。 「たいへん答えにくいことをお尋ねしますが、お許し下さい。健君の上のお子さんも、同じ病気だったそうですが」
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