第三章

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「はい、その通りです。洛南大の蘇我先生に診ていただいたのですが、二歳の時に亡くなりました」 「そうですか、二歳の時に……。申し訳ありません、思い出すのもお辛いでしょうけれども、亡くなった原因について教えてはいただけませんか」  佐絵は瞳を曇らせながら、必死で記憶の底を掬おうとした。  悲しすぎる初子の死を経験した際、あまりの衝撃に意識が飛んでいる物も多く、明確ではなかったが、それでも断片は残っている。  園衛の家で姑と遅い夕食を採っていたころ、唐突に掛かって来た電話。誠の容態急変の報せを聞いて二人で駆け付けるも間に合わず、病院に着いたときには誠の心肺は完全に止まっていた。昨日までそんな兆候もなかったのにと泣き崩れる佐絵に、心不全であるとの蘇我の説明が容赦なく追いかぶさり、心臓病を患っている患者にはよくある話だとも補足されたのだった。 「心不全、ですか……」  香取は切れ切れに語られる母親の記憶に眉をしかめ、ふっと黙り込んだ。 「あの、誠のことで何か」 「いえ、家族歴として上のお子さんも同じ病気であった旨が紹介状に書かれていたものですから、念のために伺っておこうと思いまして」 「香取先生……もしかしたら健も、誠みたいにいきなりということが、やっぱり有り得るんでしょうか」  普段通りと安堵していた矢先に頭上から降り掛かった死。兄弟で体質が似ているとするならば病状も似ているはず、健が誠のようにならないという保証はどこにもない。  三輪たちに容態は安定していると説明されようとも佐絵の緊張が取れないのは、誠の悲しい事例があるからだ。いつなんどき、我が子がこの手からもぎ取られるかも知れないという不安が。  自分なりに心臓病や治療法について調べもしてみたが、長期の闘病を得ているとどうしても突然死の確率に入ってしまうことは免れないようであり、よけいにその不安は助長された。  非情で気まぐれな神の手に、健まで奪われるのはもう沢山だった。  病気が発覚してこのかた、佐絵は小さな身体であんなに頑張っているのだからどうか誠の分も健を生き長らえさせてやってほしい、助けてほしいと、そればかりを懸命に願っている。  佐絵の質問に、香取はそんなことはないであろうと言った。 「誠君がどういった治療を受けたのか詳細を存じ上げませんので、断言は出来ませんが。投薬治療が突然死の確率を減少させることも明らかになっていますし、大丈夫だと思いますよ」 「はい、三輪先生からもお薬の説明の時にそう伺いました」 「そうですか。ならば健君自身の生命力を信じて、支えてあげて下さい。健君はいつも、お母さんやお父さん、勇太君の話をしていますよ。センターの友達や看護師さん、三輪先生のことも」 「健が……」 「ええ。元気になったら勇太君と遊びたいとしきりに言っています」  弟と遊ぶことも出来ない哀れさに胸を衝かれた佐絵が息を引いたが、医師はゆっくりとうなずいた。 「あと少しで渡米です。上のお子さんに続いて下のお子さんと、非常に大変であったろうと拝察しますが、よくここまで頑張って来られましたね。ご家族の支えがあってこその闘病であり完治です、健君がこうしていられるのも、貴女方の尽力の賜物です。どうか諦めないで下さい」 「は、はい」  気さくな雰囲気から打って変わった医師の親身な労わりが心に染み透るようで、涙が溢れそうになった佐絵は短く返答することしか叶わなかった。  まさに彼の言うとおり、夫の保明を始めとして、センターの医療陣やボランティアの人々の支えがあったればこその道のり。最初の婚家を始めとする血縁の不幸には見舞われても、他者からの埋め合わせがなされた僥倖によって。  この医師や瑞邦会の人々、青年弁護士もまたその支えの一環。  大勢の人々から、一生掛かっても返し切れない恩を享けていると思う。莫大なこれらの恩に報いるには、健が元気になれるよう親として最大限の力を尽くすことだということも判っている。香取の言う通り渡米前のこれからが正念場であり、頑張りどころだった。 「お呼び立てしてすみませんでした、お尋ねしたかったのはそれだけですので」  病室に戻る廊下で香取はそう詫びたが、佐絵がもう一度子供たちに会ったあとで玄関まで下りるのを送ってくれながら、彼は世間話に交えてごく普通の口調で再び誠のことに言及した。 「健君の手術が終わってご家族の皆さんも落ち着いてから、蘇我先生に誠君のことをお聞きになられた方がいいかも知れませんね」  誠は亡くなった以上、すでに蘇我との縁は終わっている。  なのにどこか拘っているらしい香取の意図が見えず、佐絵はかなり困惑したが、これも医師としての助言であろうと受け止め、『そういたします』と理由は判らないながらも答えて久松商事を去った。    帰途に就く若い母親を見送る香取の唇から、やはり、という呟きが漏れていたことも、彼女はもちろん知る由はなかった。
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