第三章

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第三章

「何ですって」  各務と話をつけた翌日の夜、流夏が加藤夫妻の自宅で切り出した提案を聞くなり、二人は絶句した。 「あの……健と勇太を、お知り合いの所へ一時的に移す、と?」 「そうです。奥様が先日もご覧になったとおり、センターは蘇我教授と園衛夫人にとっては簡単に手の届く範囲、親権問題にかこつけていずれは三輪先生をも強引に説き伏せ、健君を連れて行こうとするに違いありません」 「で、でも。健は判りますが、勇太まで一緒に保護なさろうとは、どうして――」  戸惑いを隠さないままに矢継ぎ早に質問を重ねる佐絵とは対照的に、黙然と語らず沈思している保明の硬い表情を見やったあとで、青年は口を開いた。 「私が教授の立場ならば、そうするからです」 「教授の?」  流夏は前言の意を強めるようにうなずき、正座した母の膝に抱かれている勇太に視線を注いだ。 「園衛貢氏と奥様の間に生まれた誠君と健君は、残念ながら二人とも心疾患を負っておられる。一方こちらの加藤保明氏を父とする勇太君は健康体です。ここまでご説明すればお判りになると思いますが、教授にとってこれはまさに望むべくもないケースと言えます。異父弟である勇太君のサンプルを是が非でも入手して健君のそれと遺伝子パターンを家系を遡って比較し、研究の更なる裏付けを取ろうとするのは目に見えている」 「あ……」  合点が行った佐絵が、伸びんとしている醜い思惑をまるで眼前に見たかのように顔色を変え、勇太を掻き抱いた。  蘇我が立てている仮説は、まさに勇太が生まれた時に彼女もちらと思ったことであった。勇太は健康上何らの問題もないと小児科医から告げられ、もしかして誠と健は園衛貢との子供だったから心臓が弱かったのでは、という憶測である。  けれども主治医となった三輪医師にそれとなく尋ねたところ、偶然ということもあるから必ずしも断定は出来ないとの答えで、それで佐絵は詮ない推測を進めることを止めた。必然の遺伝であろうと偶然であろうと、現実に健は重い病で苦しんでおり、あれこれと根拠のない考えを手繰っても意味がなく、その苦しみを母として少しでも和らげてやることの方が最優先であったからだ。  赤い頬をした勇太は、佐絵の心痛はもちろんのこと、己を取り巻きつつある他者の謀計を知る由もなく、母の柔らかい胸に頬を埋めて甘え、流夏にも無邪気に笑いかける。  しかし妻が動揺して傍らの夫に頼みの綱を探しても、保明は目の前の青年弁護士の真意を探らんとしてか彫像のように身動きひとつせず、半袖の腕を組んで依然強い眼差しを据えたままだった。 「お二人がお仕事をなさっておられる間は、勇太君を託児所か保育園に預けておられることと拝察します。その隙にどんな強硬手段に出られないとも限りません――奥様、貴女と園衛貢氏は恐らく誠君の入院時に、もっともらしい理由で血液検査を受させられたことと思いますが」 「は、はい、確かにありました。誠に輸血が必要な時も出て来るかも知れないと言うことで、念のために検査すると説明されまして」  当時のことを思い出した佐絵が告げた肯定に、流夏は思った通りだと胸の奥で呟いたが、面には出さない。 「ならば残るは勇太君の父である保明氏で、そのデータだけが教授の手元にないということになりますが、意志も体力もある成人男性を思惑通りにさせようとする手間と愚は先方も犯しますまい。何といっても本命は勇太君である訳ですから、やはり焦点は狙いやすい彼に絞られると考えてよろしいでしょう。兄弟揃って保護しようとご提案したのはそれが理由です。その間に親権問題について私が操夫人と交渉し、蘇我教授の行動をも喰い止められるように致します」 「――先生の言いたいことは、大体判りました」  それまで黙っていた保明が、淀んだ空気を断ち切るように重い相槌を発した。 「けど、蘇我教授がサンプルとやらを掻き集めようとして勇太まで狙ってるちゅうのは、あくまで先生の予想ですやろ。教授が園衛のおばはんと一緒にセンターに来てて、新しい治療法試したい言うてたらしいのは家内から聞いてますし、おばはんも引き取りたがってるから、健は確かに洛南大に行かされるかも知れへんとは思います。でもいくら何でも勇太に拉致誘拐まがいのこともしかねん言うのは、ヤクザでもないのに突飛過ぎやしまへんか」  保明の疑問はしごく自然なものであり、何もそこまで極端なと首を傾げるのも当然の話である。  流夏はそれとなく眦を引き締めて相手見つめると、まさにそのヤクザが相手だったらどうしますと畳み掛けた。 「園衛夫人と蘇我教授は、北森弁護士を通じて大谷組という暴力団と極秘に繋がりを持っています。依頼を受けた大谷組が勇太君の身柄を拘束する可能性は充分過ぎるほどにある。現に、貴方方がお話下さった先の沖田忠男弁護士の事故も、実は裏で大谷組の手が回されていたとしたら」 「ええっ! ま、まさか」  二人は狼狽に声を揃えて思わず顔を見合わせてから、季節や食事の話題のようにごく涼しい顔で恐ろしい仮説を言い放った青年弁護士に戻す。 「でも先生、警察の調べでは踏切での事故死やと、新聞にあって――」 「奥様、私が申し上げたのは可能性であり、断定ではありません。ただ園衛夫人たちの周辺を鑑みれば、そういう事情も充分有り得るというだけです」 「まさか、そんな恐ろしいことが……」  唇の震えが声にも移った佐絵の呟きが、静まり返った和室に落ちた。  しかし寒気が抑えられない推測に怯えながらも、この沖田の述べた仮定に当てはめて当時の状況を考えれば、自分ですら首を傾げたくだんの事故死にも納得が行くのだ。  しかし”殺される”そもそもの理由や動機を推定するには、亡くなった沖田側から分析するにせよ義母や蘇我側から分析するにせよ、佐絵の持っている情報量はあまりにも少なすぎた。例の沖田は蘇我教授の患者のことを調べていたというから、その辺りで何らかのトラブルがあったとのかと思うのが精一杯である。  園衛の家に住んでいたころの記憶を手繰っても、操は「貴女には務まらない」と若嫁に園衛流の対外的な執務はもとよりサロンでの行事も一切手伝わせることがなく、それゆえ暴力団と義母が手を結んでいると聞かされても思い当たる節は皆無だった。  もともと一般大衆のほとんどがそうであるように、社会の暗部を知らずに暮らしてきた佐絵には犯罪の殺人のはもっとも遠い世界の話で、別次元の出来事である。事故は事故と素直に解釈し、裏に事情が潜むことなど考えたことすらなかった彼女にとって、たった一度書状を送られただけの縁とは言えど名前と職を知った人が殺されたかもしれないという現実は厳しく、その暴力団の刃が己たちにも降り掛かることを予想すると、身が竦むような恐怖に身体が冷えて行く。  どうすれば良いのか。  近付いている危機の気配に思い悩む佐絵の耳に、同じく想像以上の危機が迫っていることを悟ったらしい夫が重ねている質問が届いた。 「先生に言われてみれば、あのおばはんならヤクザと組んでるいうことも充分ありうる話や。俺らはなかなか休める仕事やあらへんで、託児所には世話になってますが、そこで勇太に何かされたら元も子もないし、託児所に迷惑掛けてもあかん。ここは先生の言う通りにした方がええかも知れんと思います。でも先生、どこの病院のお知り合いが二人を預かって下さる言うてはるんですか」  せっせと動いて父の膝に移動した勇太を軽々と抱き上げながら保明が尋ねると、流夏は微かに唇を緩めた。 「病院ではありません、心臓外科の専門医と看護師には来てもらい、器材も揃えていますが。御堂筋の久松商事という会社に知人がいますので、そこで健君たちを保護するよう手配しています」 「久松商事、やて」  打ち返すような鋭いおうむ返しと共に保明の眉根がみるみる間に絞られ、机から身を乗り出さんばかりに流夏を睨み付けた。  瞬時に変化した夫の横顔に佐絵は驚き、弁護士の語った何が一体気に障ったのかと目を見開いて、凍り付いた雰囲気をかたずを呑んで見守った。
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