1.出逢い

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1.出逢い

 初春の頃。日が昇り、街中が動き出す時間帯だった。  ぱたぱたと軽やかな駆ける足音が近づいてきたかと思った矢先、突如として曲がり角を飛び出してきた少女と、真正面からぶつかった。片山仁志はくわえていた煙草を落とし、後ろに二歩ほど退いただけだったが、しかしその少女の方はというと、「きゃっ」と一つ短い悲鳴を上げて、雨上がりのアスファルトに尻餅をついていた。見たところ、高校一年生らしい。褐色の肩にかかった髪が乱れ、その真新しい制服のブレザーやスカートに、水しぶきが跳んでいる。寝起きで多少散漫になっていた自分の注意力不足を省みながら、その時の片山は、柄にもなく悪いことをしたと思ったのだった。  少女は咄嗟にスカートの裾をぱっと両手で押さえて、片山を睨みつける。何となくバツが悪くなって、片山がきびすを返そうと思ったその時、少女は落とした鞄を抱えて立ち上がり、片山の背後に回りこんだ。そのあまりに素早い動きに、流石の片山も少し呆然としたのだったが、それもつかの間、重い足音と共に三人の男が現れた。少女が飛び出してきた方向から現れたその三人は、一人は白髪交じりの五十路男で、残りの二人は若く落ち着いた雰囲気であり、その組み合わせ自体は特段違和感などなかったのだが、しかし異様だったのは全員がタキシードだということだ。  少女は片山の背中に身を隠すように張り付いている。立ち上がったその身体は随分と小柄で、一五〇センチくらいか。少なくとも自分と二十センチ前後の差がありそうだ。それに対して三人のタキシード男は、いずれも見上げるほどの大男だった。  さて、これは一体どういう状況なんだろう。  少女は突然、タキシード三人衆に向かって「来ないでっ」と叫んだ。 「汚らわしい手で触らないで!」 「おい、言わせておけば好き勝手言いやがって――」「調子に乗るんじゃないぞ」と若い方の二人が交互に言い、こちらに近づいてくる。その目を見て少々ヤバイなと思った瞬間、少女がその小さな手で片山の背広の裾を引っ張った。  助けて。そう言われた気がした。  そこからは一瞬の出来事だ。一人目の若い男が不用意に伸ばした右手を左手で掴み、引き寄せながら右のフックパンチを放つ。まともに顎にパンチを食らった男は大きく揺らぎ、その無防備な腹を片山は右足で蹴り上げた。男の身体は一瞬宙に浮いて、そのままうつ伏せにアスファルトの上に叩きつけられる。続いて殴りかかってきた二人目の若い男をかわして背後に回りこむと、その襟首を掴んで引き落としながら右足のふくらはぎを蹴り上げた。男は鮮やかにバランスを崩して、背中からアスファルトに打ちつけられる。最後の白髪タキシードは片山の動きを封じようとして正面から掴みかかってきたが、しかしその手が届く前に、片山の左手は相手の右袖を、右手は蝶ネクタイを掴んでおり、片山の身体がくるっと反転したかと刹那、白髪タキシードの身体は宙を舞っていた。教科書通りの、綺麗な背負い投げが決まったのだった。  この間およそ六秒。一人当たり二秒ほどかかったことに歳相応だと自嘲して、片山は煙草をくわえて火をつける。もう気づけば三十九歳か。歳月の流れは速いものだ。  さて、一体お前らは何者なのだと白髪に尋ねようかと思った矢先、少女がそれを遮った。 「あなた、強いわね!」そう言って瞳を輝かせる少女。 「一緒に来なさい!」  思わぬ展開に「はあ?」と片山は素っ頓狂な声を上げていたが、しかし少女は気に留めた様子もなく、強く方山の手を引いて駆け出す。路地を抜けて大通りに出ると、目の前のバス停にちょうど停まっていた路線バスに飛び乗った。 「ふぅ、間に合ったわ!」少女は言い、運転手に向かって「ありがとっ」とウィンクをする。 「おはよう、お嬢様。今日はギリギリだったね?」  運転手は言って、乗車口のドアを閉めた。バスがゆっくりと動き出す。 「途中であいつに追っかけられたのよ。ふー、もう朝から汗をかいちゃったわ」  少女はそう言って、首元に締めている淡い水色のリボンを緩めた。「あっ、この人は私の生命の恩人ね。えっと、名前は――」 「片山」と名乗り、目の前で繰り広げられる不可解な状況を把握すべく、少女に尋ねる。 「お前は誰だ。あのタキシードは何者だ、何故追われてる。一体何がどうなっているんだ?」 「落ち着きなさいよ」と少女は、先ほどより随分と高飛車な口調で言った。 「せっかちな男は嫌われるわよ?」  余計なお世話だ。そもそも今、そんなことは関係ない。 「私は小鳥遊ゆかりよ。小鳥が遊ぶと書いてタカナシ。ゆかりは平仮名」 「小鳥遊のお嬢様を知らないのか?」と運転手が言ってきた。 「小鳥遊といえば、小鳥遊コーポレーションに決まってるだろ。この街で知らない者はいないぜ」  小鳥遊コーポレーションといえば、社長の小鳥遊肇が二年前にこの長野で起業し、今や日本でも指折りの大企業に急成長した会社だった。なるほど、お金持ちのお嬢様か。なら、何かしら狙われても不思議でない。  しかしゆかりは、運転席のすぐ後ろのシートに腰を下ろすと、思わぬことを言い出した。 「あのタキシードの汚らわしい三人組は、うちの新しい使用人。ホント、お父様の言いつけばかり聞く連中で、困っちゃうわ」 「――は?」使用人だと? 「狙われてたんじゃないのか」  それを聞いて小鳥遊ゆかりは吹き出し、そのままお腹を抱えて一頻り笑うと、「狙われてた、ですって?」と言う。 「タキシードを着た誘拐犯? それとも痴漢? そんなのいるわけないじゃない。そもそもそんな連中なら、逃げたりせずに返り討ちにしてやるわよ!」 「彼女はこう見えて、空手の達人なのさ」と運転手。 「じゃあ、何故追われてたんだ」  片山の問いかけに、ゆかりはいたずらっ子のように微笑んで、肩にかけていた鞄を下ろしてチャックを開ける。その刹那、にゃーと一つ鳴き声が聞こえたかと思うと、鞄から一匹の子猫が飛び出してきた。 「この子ね、私の部屋の軒先で、昨日、雨宿りしていたの。それでね、可愛そうだから中に入れてあげたのよ。それなのに、お父様ったら酷いのよ、猫なんか飼っちゃだめだって言うんだもの。私、猫アレルギーなんてとっくに治って――」  ――はくしゅっ  ゆかりは小さなくしゃみを続けて二度繰り返し、片山を節目がちに見上げると、「すっ、少し風邪気味なだけよ!」と言う。子猫はゆかりの膝の上に乗っかって、にゃーと一声笑った。ゆかりは肩をすくめて、そっぽを向いて鼻を啜る。  にゃーともう一声、子猫が笑い、「ねっ」とゆかりは微笑んで振り向いた。 「あなたもあんな汚らわしい男共のところになんか、行きたくないわよね?」  そんなことよりも。片山は冷静に現在の状況を思い返し、順を追って整理してみる。大企業の社長のお嬢様である小鳥遊ゆかりは昨夜、雨宿りの猫を助けて自分の元に招き入れた。しかし今朝になって父親から、飼うなと言われた。反抗したゆかりは、そのまま猫を連れて登校しようとしたが、父親の指示で彼女を使用人が追っかけてきた。  そいつらを俺は潰したということか。――阿呆らしい。 「降りる。停めろ」と片山は運転手に言ったが、彼が応える前に「駄目よっ」と言ったのはゆかりだった。 「あなたは私と一緒に来てもらうわ! あなた、身なりは小汚いけれども、本当に強いんですもの。今日から、私のボディガードとして雇ってあげるわ。この私が直々に選んであげたのだから、光栄に思いなさいっ」 「くだらん。そもそも俺は――」  刑事だと言おうとして咄嗟に口ごもったのは、背中に微かながら、非日常的な視線を感じたからだった。憎悪や、あるいは殺意をまとう冷たいそれは、片山が日常的に相手にしている犯罪者の視線―― 「くだらないとは失礼な人ね。何よ? 最後まではっきり言いなさい」  ゆかりがそう言った次の瞬間。 「動くな!」と言う短い叫びと共に、一発の銃声が響き渡った。
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