3.人質

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3.人質

 面倒なことになった。さて、とりあえずは煙草が吸いたい。 「よし、全員座ったな、じゃあ携帯電話を出せ!」  拳銃を片手に、バスジャック犯の男が怒鳴る。乗客は片山とゆかりの他に六人。その全員が最後部のシートに移動させられていた。 「出したら、おい、お前!」  バスジャック犯は、ゆかりと同じ学校の制服を着た女の子を指さす。「お前、全員分集めて持ってこい」  指された女の子は半ば泣きながら、全員から携帯電話を受け取って回った。片山も背広の内ポケットから携帯電話を取り出して渡す。最悪の場合、ホシは窓から捨ててしまうんだろうなと考えて、機種変更の手続きを思い浮かべると、やはり面倒だと思った。まあいい、あれはプライベート用だ。なくてもどうにでもなる。  片山は背広の右ポケットを触った。そこには警視庁からの支給品の携帯がある。仕事用とプライベート用に一つずつ持つのは、以前公安部に所属していた頃からの習慣だった。ある種スパイ活動的な任務もある公安部の捜査員は、仕事とプライベートとは文字通り全くの別物であって、正に一人で二つの人生を生きていると言っても過言ではないだろう。  そんな公安部から刑事部に左遷させられたとき、どういう理由か、捜査一課に引っ張ってくれたのが西岡夏帆だった。  そうして幾ばくかの年月が流れていたが、いくつかの習慣は未だに抜けない。先だって犯罪者の視線を感じ取ったのも、自分に近づいてくる足音に耳をすませることも、そんな習慣の一部に基づくものだった。  犯人は女の子から携帯を受け取ると、その中の一台を手にとって、どこかに電話を掛け始めた。 「どうも、小鳥遊さんの御宅ですか」  ゆかりがはっとして顔を上げる。「うちに何の用よ!」と叫び、犯人は面倒くさそうにこちらを一瞥して、「黙れ」と言った。 「御宅のお嬢様が乗ってるバスをジャックしました。ええ、人質に取ったんです。つきましては、身代金として五億を用意していただきたい。えっ、ない? そんなもん、あんたんとこの会社から出せばいいでしょうが。それぐらいあるでしょ。とにかく、二時間以内に用意してよ。お嬢様の生命はこっちが握ってるんだから、そのつもりで」  その間にゆかりは犯人に詰め寄ろうかという勢いで立ち上がろうとしたのだったが、片山がそれを止めた。 「あなた、離しなさい! ボディガードの分際で、どういうつもり!」  ゆかりは怒鳴ったが、片山は平然としたまま何も言わず、ただ座れと目で示す。ゆかりはドスンと勢いよくシートに座り、犯人と片山を交互に睨んだ。 「まあそういうわけだから。大人しくしててくれるかな、小鳥遊ゆかりちゃん?」  犯人は気味の悪い笑顔で言い、今度は自分の携帯電話を取り出した。電話がかかってきているようだ。 「もしもし、計画通りですよ。人質は八人。ええ、任せてください」  人質は八人か。片山は内心で笑う。こいつ、さほど頭がいいわけじゃないらしい。確かに乗客は八人だが、運転手を入れると人質は九人のはずだ。と言うことは、この中に誰か、共犯者がいるってことだ。  それなら余計と面倒なことになった。  片山は仕事用の携帯電話をポケットの上から操作して電話を掛ける。宛先は、警視庁捜査一課は殺人犯捜査七係のデスク。もう七係は、所轄の捜査本部から本庁に引き上げているはずだ。そして、あのバカ連中がこの状況に気づいたなら、たとえそれが無茶苦茶な何かだったとしても、事態の収拾に向けて最良の対処をしてくれるはずだ。こういうときほど、頼りになる連中だった。  それに、腰のベルトに着けている携帯無線機の電源も入ったままだ。このちゃちな無線機がどこまで優秀かは知らないが、多少の音なら拾って、同じく長野にいる葛木潤と和泉秀に届けてくれれば御の字だ。少し心配なことは、西岡夏帆抜きで、あいつらだけでどこまで対処できるか。  その隣で、ゆかりは悔しそうに唇をかんで、犯人を睨んでいた。  その表情を見上げて、膝の上の子猫は小さく、にゃぁと呟く。  まずは一本、煙草が吸いたいと考えながら、片山は左腕をさり気なく動かして、左の脇に釣った拳銃に触れる。シグP230モデル。支給品のオートマティック拳銃が活躍するような事態にならなければいいが。 「ねぇっ」とゆかりが言う。 「ねぇってば!」 「なんだ、うるさいな」と犯人が答え、ゆかりはキッと犯人を睨む。 「うちに身代金を要求したんなら、他の人たちは関係ないでしょ、降ろしなさいよ!」 「何言ってるんだ、お嬢様。世の中、保険ってのは必要だろ? だから、他の乗客は降ろさない」 「じゃあどこへ行くのかぐらい教えなさいよ!」  犯人は肩をすくめて応じる。鋭い怒りを放ちながら、再び立ち上がろうとするゆかりを制して、片山は「どこへ行くつもりだ?」と立ち上がって尋ねた。 「おい、座れよ」と犯人が銃口を向ける。構わずに片山は、運転手に向かって言った。 「どこへ行くつもりなんだ?」 「座れって言ってるだろ!」と犯人。「貴様には関係ない!」 「いい加減にしておけよ」と片山は嘲って言った。こいつらみたいな間抜けなホシは久しぶりだ。銃の男は要求に際して人質の数を間違えるし、そして――この運転手も。  前方の信号が黄色になり、バスが減速する。 「なあ、お前もこいつの仲間なんだろ?」  ゆかりが驚いたように片山を見上げた。他の乗客たちも、恐怖だけだった表情に怪訝な雰囲気が混ざり合う。そうして当の犯人の表情からは、血の気が引いていた。  五分前、犯人は拳銃を出し、全員を最後部のシートに移動させて携帯電話を取り上げた。そして身代金の要求。こいつがしたのはそれだけだ。何かが不足していると思ったのだったが、それは。 「こいつはお前に行き先を指示していない。だがお前は、黙ってバスを走らせている」  こいつらは相当な間抜けだなと片山は嘲って笑い、「行き先はどこだ」と尋ねた。 「貴様、何者だ!」と犯人が銃を向けて怒鳴る。  片山は肩をすくめただけで答えなかった。代わりにゆかりが、「私の優秀なボディガードよ!」と叫んで立ち上がる。 「とても優秀なボディガードなんだから、甘く見ないで欲しいわね。私が選んだの、私の目に狂いがあるわけないもの!」  目の前の信号が赤に変わり、バスが停まった。 「畜生――ボディガードがついてるなんて、聞いてねぇぞ、なぁ!」  犯人の叫びに、「俺だって聞いてないっつーの!」と運転手が答える。 「ばれてしまったからには仕方ねーな、お前らの行き先は、地獄の入り口だ!」  運転手が叫び、笑ったところで、ゆかりは「ダサいわ」と呟いた。 「この私を人質にとるくらいなんだから、もっと狡猾で冷酷な凶悪犯かと思ったら、ただの馬鹿じゃない。つまらない連中ね」  犯人が顔を真っ赤にして、「この小娘が――」と銃口を向ける。  片山はゆかりの手を引いて座らせ、その身体がなるべく隠れるように彼女の前に立つ。 「聞いていないってことは、誰かに指示されてやってるってことだな。さっきの電話の相手か?」  片山が尋ねると、「だから、なんだってんだよ」と犯人が言い返す。 「うるせーな、貴様には関係ないだろ!」  犯人が言い、顔面を怒りで真っ赤に染めて、つかつかと近づいてくると、片山ののど元に銃口を突きつける。ゆかりが「やめてっ」と叫んだその瞬間、痛みによる情けない悲鳴を上げていたのは犯人だった。  片山は左手で、犯人が銃を持っている右手を捻り上げると、腹に膝蹴りを見舞う。そして更に右手を捻り、犯人が銃を落としたのを確認してから腹を蹴り上げる。バスの狭い通路で思いっきり吹っ飛ばされた犯人は、座席の角でしたたかに頭を打ちつけたらしく、また情けない悲鳴を上げた。  信号が青に変わり、バスがゆっくりと動き出す。  片山は左脇のシグを引き抜くと、その銃口を犯人に向けて、「バスを止めろ」と一言言った。この様子はミラーに映って、運転席からも見えているはずだ。 「なっ――貴様、何者なんだ!」と犯人が叫ぶ。ゆかりはこの一瞬の出来事をただただ呆然と見つめ、子猫が膝の上でにゃーと一つ欠伸を漏らした。 「俺は刑事だ」  片山は言った。「デカなら、俺たちを逮捕しないといけないんだろ!」と犯人は嘲るように言い、片山は「知ったことか」と返す。「死体でも、確保すれば一緒だ」片山は無意識のうちに背広の内ポケットから煙草を取り出してくわえ、火をつけた。犯人の表情がみるみる恐怖に染まり、運転手に向かって「バスを止めろ!」と叫んだ。  すると「止められない!」と運転手が叫び、「何故だ!」と犯人が返す。 「止めたら殺されるんだ!」
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