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6.立てこもり
長野県警のパトカーが集まりだしている。煙草をくわえると、それはゆかりによって取り上げられた。
「車内は禁煙。他の人の迷惑を考えたらどうなの?」
「吸わずにやってられるか」と片山は呟いたが、恐怖に歪んだ人質たちの表情を見ると、そんなことを言った自分がまるで悪者のようだった。
全てのブラインドが下ろされ、フロントガラスとリアガラスには乗客が持っていた新聞紙が張られ、外の景色の一切が遮断されているバスの車内は、薄暗い様相だった。よく仄暗いと言われる自分には、お似合いの場所だと自嘲しておく。
「それよりもどうするつもりなの? この人も撃たれてるし――」
ゆかりは運転手を見て言う。幸い、なかなか勘のいい男であったために、反射的にバスのハンドルを切って、被弾は右腕と右足に二発ずつで、命に別状はなさそうだ。しかし、動かないほうがいいだろうし、何より早くに病院に行ったほうがいいに違いない。その隣で、犯人は手錠で手摺に繋がれている。
「降ろせないの? ねえ、どうして動こうとしないの?」
「黒幕の指示だ」と片山は言った。「奴は俺に、ここに立て篭もって身代金を要求しろと言ってきた。指示に従わないとこのバスを爆破すると」
「何よそれ!」
「とにかく、奴の出方を見るしかない」
片山が言った時、ポケットの中で犯人の携帯電話が鳴った。先ほどの電話の後、片山が預かっていたのだ。
「なんだ」片山が言うと、相手は即座に《余計なことを喋らないことだ》と言った。
《きみたちの生命は私が握っているのだから。それを忘れないよう、きみは私の指示に従っていればいい。じゃあね》
「ちょっと待て」
片山は運転手の方を微かに見て言った。「運転手は被弾している。彼だけでもバスから降ろしたい」
お人好しめ――黒幕を刺激するのがまずいのは解っている。
《ほう――死ななかったとは運のいい奴だ。まあ邪魔者は消えたほうがいいだろう、彼だけを降ろせ。他の者が降りたらスイッチを押すぞ》
電話が切れた。片山は運転席まで駆けて行くと、前方のドアを開けた。警官隊が駆け寄ろうとするところに、片山はシグの銃口を向けて、「来るんじゃない」と言い、運転手を引きずって外に放り出すと、「人質はあと八人だ、妙な真似をしたら容赦なく殺す」といつもならば相手方が言う定型句を吐いて、ドアを閉めた。普段なら向こうにいて、この台詞を聞いている側なのだ、皮肉なものだと自嘲しておく。
片山は犯人に向かって尋ねた。
「次の身代金要求の電話はいつ入れるんだ?」
「さっきが七時十分だったから、次は九時十分だ。二時間以内に用意しろって言ったから」
あと一時間強か。片山は腕時計を見る。
外が物々しい雰囲気になってきている。長野県警もなかなか対応が早いな――徒然にそう思った。
片山は衝動的に煙草をくわえていたが、しかし目の前のつぶらな瞳に見つめられていることに気づいて、煙草を箱に戻して顔を背けた。
「車内は禁煙よ、賢明な判断だわ」とゆかりは鮮やかに微笑んだが、片山はそっぽを向いたまま何も答えようとはしなかった。バスなんて大きらいだ。
何かしらの悪態をつこうかと思った矢先、バスの前方にある降車口のドアがノックされ、「話をしようじゃないか」という声がかかる。――いよいよ来たか。
「私は長野県警の橋本だ。きみと話がしたいんだよ」
ベテランらしい、落ち着いた声。相手を刺激しない柔らかい声。そして、交渉によってホシを落とすための声。
「なあ、要求は何なんだ? どうしてこんなことをする羽目になったんだい、片山巡査部長――?」
その橋本と言う交渉役は、おそらく県警捜査一課特殊犯捜査の捜査員だろう。教科書通りではあったが、相手が刑事だということで多少戸惑っている様でもあった。
「警察との交渉には応じない」
「いや、交渉は必要だ。きみは身代金を要求しているね? それを得て、この警察の方位の中から逃げるためには、我々との交渉が必要なはずだ」
ヘリの音が聞こえてきた。報道に違いない。
「マスコミ各社と報道協定を結べ。最初の要求だ。あと、運転手をとっ捕まえとけ。ヤツはホシだ」
片山は言い、真ん中の方のシートに腰を下ろす。また無意識のうちに煙草を取り出していたが、今度はゆかりがそれを引っ手繰った。
「禁煙よ」
「吸わずにやってられるか」
ゆかりは片山の目を真っ直ぐに見つめ、煙草の箱を握り潰してどこかに放った。
片山は怒る気にもなれず、もう全てが面倒くさく、一つ大きく溜息を吐くと、腕を組んで目を閉じた。
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