創作鶴の恩返し

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 男は早春の晴れ晴れとした休日に釧路湿原へ観光に行った。  雄阿寒岳や雌阿寒岳を眺望できる展望台からは、まだ緑に染まらない草木の広がりが飴色の下地となって、そこに残る積雪が白い帯を幾筋も形成し、その間を縫って流れる大河の川面が蛇の鱗の如く光り川筋が蛇の胴の如くうねっている為に宛らカフェオレの海の上を巨大な青大将を思わす釧路川が泳いでいるかのような風景を望むことが出来、その壮観な大自然が織りなす景勝を男は堪能した。  男の最大の目当てはタンチョウだが、遊歩道を散策している途中で自ずと目にするエゾシカやキタキツネの他に妖精のように純白で可愛らしいシマエナガや忍者のようにすばしっこいエゾリスや王者のように空に君臨するオジロワシなども観察することが出来た。そしてタンチョウの鋭く甲高い鳴き声が聞こえた日には男は委細構わず遊歩道を飛び出して夢中で鬱蒼と茂るヨシを掻き分けながらな鳴き声のする方へ向かって行くと、その声から痛々しさが伝わって来るので、これは尋常でないぞと思い、どんどんヨシ群落の中を進んで行くと、両翼をバタバタと忙しなく羽ばたかせる音が聞こえて来てヨシ群落を抜けた所、沼近くの叢の中でトラバサミに掛ってもがき苦しむタンチョウを発見した。 「ミンクでも獲るために仕掛けたんだろうか?」  男はそう思いながら近づいて行くと、激痛の為、昂奮して頭に血が上ったものか、頭頂部の赤い皮膚が異様に赤いのに反して白い羽根が雪のように白くて、とても美しい鶴であることが分かった。 「嗚呼、可哀想に、可哀想に、どうか静かにしてくれ、でないと助けてやれないよ、罠を外してやれないよ」と男が優しげに言うと、鶴は人間の言葉が分かるのか、不思議にも両翼をばたつかせるのを止め、鳴くのも止めて駄々をこねてたのに大人しくなった赤子のように静かになった。 「おう!何という賢い鶴だ!よしよし、今、外してやるからな」  男がそう言ってトラバサミの刃の横にある板バネを押してやると、両刃が開いて鶴の足がトラバサミから逃れ出た。  すると、鶴はまるでお礼をするようにしなやかな細い首を垂れて赤い頭を下げた。  その仕草が嫋々たる女のようでもあったから男は鶴を艶やかな女に見立てて言った。 「いやあ、お前みたいな美しい女と一緒になりたいものだ」  この言葉を聞くや否や鶴は両翼を広げてコンコルドのように華麗に飛び立ったかと思うと、アクロバット飛行をする曲技機のようにくるっと宙返りして、その途端、タンチョウを思わす白地に赤と黒の模様の入った着物を着た、この世のものとは思われない美しい女に変身して男の前に舞い降りた。 「わたくしは前世の報いで天罰が下って鶴にされてしまった女でございます。わたくしは人の優しさに触れると、元の姿に戻れるのですが、あなた様に助けられた御礼にあなた様の願いを叶えて差し上げようと強く念じたからでございましょう、わたくしは美しい女に変身することが出来ました。ですから、どうか、わたくしをもらってください」  男は超常現象を目の当たりにした人のように驚愕し、何度も目をこすって目の前の女を見たが、何度見ても美しい女に違いないので、やっと夢ではなく現実だと悟ると、垂涎の的となった女に向かって興奮冷めやらぬ儘、言った。 「ほんとに俺の女になってくれるのか!」 「はい、喜んで」 「キャッホー!何という勿怪の幸い!遂に俺に一陽来復の春が訪れたのだ!」  という訳で男は期せずして念願の美しい女を手に入れ、彼女と比翼連理の契りを結ぼうと誓い合い、春のみならず一年中、陽光に照らされたような光り輝く実に目出度い毎日を送ることになった。  季節は巡って一年が経ち、再び風光る春が訪れ、今日も今日とて男は黄昏時、意気揚々と会社から自宅の借家に帰って来た。 「只今!」  いつもなら、お帰りなさいと玉を転がすような声で言いながら満面笑顔で美人妻が玄関までやって来て男を出迎えるのだが、その美人妻が出てこない。而も夕飯の支度をする音が聞こえてこないばかりか料理の匂いも漂ってこない。  男は不審に思い、台所へ行ってみたが、いない。居間にも寝室にも風呂場にもトイレにも行ってみたが、いない。蛻の殻だ。  これは一体どういうことだと考える内、頗る心配になり、安否を気遣い、自分はどうすべきかと考え、疲れていたことも有り、兎に角、休んで落ち着いて考えようと思って居間へ行き、ソファに座ると、テーブルの上に何も書かれていない封筒が置いてあることに気づいた。  中を見ると、四つ折りになったA4サイズのレポート用紙が入っている。  手紙だと思った途端、男は胸騒ぎがしてドキドキしながら紙を取り出し、開いてみると、それは紛れもなく水茎の跡も麗しい美人妻の手になる物であった。 「あなたへ  実はわたくしは美しさを与えられたにも拘らず俗人と同じように嘘ばかりつくという廉で天罰を受け、鶴になった女でございます。ですが、以前申した通り人の優しさに触れると、元の姿に戻ることが出来る上、その人に恩返しをすることによって完全に人間に返れるのでございます。ところが、わたくしは恩返ししようとすればする程、嘘をつく破目になってしまいました。事実、今迄のあなたへの奉仕の笑顔も誉め言葉も愛の言葉も好意の言葉もすべて嘘でございます。  例えば、蚤の夫婦って言われても全然気にしません。だって私、あなたが可愛らしく思えてならないんですもの。とんでもございません。だって私、背が低い人が大嫌いなんですもの。  それからお腹の形が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、太鼓腹の人が大嫌いなんですもの。  それから鼻の形が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、鉤鼻の人が大嫌いなんですもの。  それから目の形が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、たれ目の人が大嫌いなんですもの。  それから唇の形が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、たらこ唇の人が大嫌いなんですもの。  それから頭の形が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、絶壁の人が大嫌いなんですもの。  それから頭がショーンコネリーみたいで好き、これも真っ赤な嘘。だって私、ハゲの人が大嫌いなんですもの。  それから足の格好が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、ガニマタの人が大嫌いなんですもの。  それから足の長さが好き、これも真っ赤な嘘。だって私、短足の人が大嫌いなんですもの。  それからおちんちんのサイズが好き、これも真っ赤な嘘。だって私、短小な人が大嫌いなんですもの。  それから直ぐ感じてくれる所が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、早漏の人が大嫌いなんですもの。  それから粋な所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、野暮なんですもの。  それからお洒落な所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、ダサいんですもの。  それから物静かな所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、しょっちゅう小言を言うんですもの。  それから物に動じない所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、嫉妬深いんですもの。  それから面白い所が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、親父ギャグを言う人が大嫌いなんですもの。  それからエッチな所が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、すけべな人が大嫌いなんですもの。  それから明るい所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、根暗なんですもの。  それから誠実な所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、嘘つきなんですもの。   それから潔癖な所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、不潔なんですもの。  それから清貧な所が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、誠実でも潔癖でもない上に経済力のない人が大嫌いなんですもの。  それからノリが軽い所が好き、これも真っ赤な嘘。だって私、軽薄な人が大嫌いなんですもの。  それから寛大な所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、小心者なんですもの。  それから外連味のない所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、俗物なんですもの。  それから頭の良い所が好き、これも真っ赤な嘘。だってあなた、愚か者なんですもの。  他にも正直に言えなかったことが色々ございまして書き留めておきたいのですけれど、諄くなりますからこの辺で止めておきます。ああ、十分諄かったですね、すいません。それにしても人間って相手との仲を保つには嘘ばかりつかないといけないんですね。それがよく分かったことが何よりの収穫でした。これで人間に未練がなくなりました。  私は喜んで天罰を受け鶴に戻って釧路へ帰ります。では、さようなら!                                     鶴代より」  読み終えた男は、限りなく傷心し、悄然とすると共に今迄、浮かれに浮かれてお世辞を真に受けて喜んでいた俺は確かに馬鹿だったと悟った。  更には今迄、見て来た自分にとって良いものは全て仮象だったんだと悟り、春だというのに一年前とは雲泥の差で天国から地獄に突き落とされたように暗黒の世界に沈み込んだ男は、希望の光を見失った。  男は鶴代がいなくなってから一ヶ月くらい途轍もない喪失感とショックとで立ち直ることが出来ず、焦心苦慮の末、自殺しかねない状態まで落ち込んだが、結局、命を絶つには至らず生きる道を選んだ。  だが、無断欠勤が続いて勤め先を首になっていたので就活をしなければならず、それは困難を極め、恥辱を味わいながら何とか一ヶ月余りで再就職を果たし、それから半年が経った或る日曜日の事、男はグリーンアドベンチャーを楽しむ人とは裏腹に項垂れた頭を両手で抱えながら公園のベンチに鬱然と座っていた。 「生きる道を選んでみたが、もう空気読んで生きることに疲れた。だって嘘ばかりつく破目になるんだもんなあ。二枚舌使ったり三味線弾いたりお世辞言ったり、心にもないことばかり言って何にも本音が言えやしないよ。全く大人の人間関係って、いつから嘘で塗り固められてしまったんだろう・・・」  そう独り言を呟いていると、「正直に仰ると、人間関係が破綻するようになってからでございます」と言う女の声が頭上から聞こえて来たので男はハッとして顔を上げた。  見ると、目の前に見目麗しい妙齢の女が立っている。 「お、お前は鶴代!」  鶴代は軽く頷いて見せた。 「お、お前、鶴になったんじゃなかったのか!」 「わたくし、正直になれましたから人間に戻れましたの」 「い、一体、お前は何者なんだ?女狐なのか?」 「いえ、正真正銘の人間ですわ」 「正真正銘?正真正銘か知らんが、お前、鶴に戻ったって嘘だろ!あんな酷い手紙を書き残しておいて半年以上も何処へ行ってたんだ!俺はその間、どんだけ苦しんだか、想像もつかないだろう!」 「いいえ、そんなことはありませんわ。ですから、わたくし、後悔して正直になりますから、どうか人間に戻してくださいと天に向かってお願いしましたら神様にもう一度、人間として生きるチャンスを賜って神様に正直者と認められれば、あなたに会えることになりまして、それまであなたから離れた土地で暮らしましたところ認められましたから、こうして戻って来てあげましたのにそんなに怒らないでくださいまし」  そう言われて男は怒りが泡沫のように消えてゆき、その代わり色めき立って一気に許す気になり、「そ、そうか、悪かった」と謝った。「じゃあ、俺とやり直してくれるんだな!」 「いいえ、心中しに参りましたの」 「な、何!心中!な、何で?」 「わたくし、正直になりましたら人間をやってられなくなりましたの」 「つまり、人間関係が破綻して・・・」  鶴代は頷いて、「それで生きられなくなりましたの」 「しかし、心中って、お前、随分、唐突じゃないか・・・」と言っている内に男は再び色めき立った。「そ、そうだ、な、な、鶴代、そんなこと言うなら、やっぱり、やり直さないか、俺と一緒になる気になったんだろ」  鶴代は頷いた。 「なら、やり直そう」 「それは駄目ですわ。生きられる積もりなら、わたくし、あなたと一緒になりませんわ」 「えっ!な、何でだよ!」 「わたくしと一緒におなりになりたいなら心中してくださいまし。そうなさらないなら、わたくし、あなたと一緒になれませんわ」 「だから何でだよ?」 「どうせ生きられないのですもの」 「いや、俺と一緒なら生きられるよ」 「ですから申したではないですか!生きられるお積もりなら一緒になりませんって」 「ど、どうして?」 「どうしてもこうしてもありませんわ。わたくしと一緒におなりになりたいのでしょう」 「あ、ああ」 「でしたら、わたくしと心中してくださいまし」 「ど、どうしても心中しないと一緒になれないのか?」 「ええ、どうしても、だって、やり直すと仰っても上手く行くわけないですもの!」 「何故?」 「何故って、わたくし、もう嘘をつきたくありませんの!そうしますと、あなた、どうおなりになると思って?」 「えっ・・・」 「お考えになっても見てください。あなたはお姿もお心も欠点だらけでいらっしゃるのですもの。わたくしにずけずけ言われましたら、あなたはもっとボロボロにおなりになるではありませんか!」 「・・・」 「お分かりになったでしょう。わたくしがあなたと一緒になるには心中するしかありませんの」  心ならずも合点が行った男は散々、悩んだ末、結論を出すと、寧ろ明るい表情になって言った。 「俺、お前にずけずけ言われても構わないよ。鶴代と一緒に暮らせるなら、ほんとに構わないし、会社での人間関係も我慢できるしね」 「そうですか。あなたがそうおしゃるなら、わたくし、喜んであなたと一緒に暮らしますわ」  という訳で寄りを戻すことになると、男は鶴代に散々貶されることがあっても却って快感に思うようになった。彼はマゾヒズムに陥ったに違いなく情交の時なぞは、女王様とお呼びと言うまでに鶴代が楽しむようになってしまったとさ。
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