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「ちょっと? これ、台所に運んどいて」
真子を胸に抱えながら、雅代が旦那に命令すると、英二はテーブルに並ぶ済んだ夕食の食器をそのままに、テレビの前に寝転んで、不機嫌そうな目つきを雅代に向けた。
「どうして? 俺が?」
その一言に、すでに頂点に達していた雅代の怒りは諦めへと変わる。
喧嘩。犬も食わない夫婦の喧嘩。それをこの状況でおっぱじめるには少々コンディションが悪すぎる。そう判断した雅代は英二を無視して、真子の背中をリズムよく軽く叩きながら、トイレから出てきた長女の咲子を連れて、寝室へ入った。
「咲ちゃん。もうおやすみするから、お布団に入ってね」
「お布団! 入る!」
雅代の声に素直に返事をして、咲子は布団に体を滑り込ませる。幼稚園児がすっぽり収まる子供用の布団から可愛い頭を出して、咲子は母親を見上げている。雅代はうとうとしている真子を寝かせるため、立ったままあやした。
「ママ、今日ね! 桃ちゃんがね」
「ちょっと待って」
咲子が話し出すのを小声で遮り、雅代は真子の瞼が閉じるのを待っている。
「ねえ、ママ!」
「ちょっと待って、って言ってるでしょ!」
小声でありながら強い口調で、雅代はもう一度咲子の声を遮る。
咲子は掛布団を顔まで被せて、いじけた。
リズムよく揺らす雅代の腕の中で、真子がゆっくり目を閉じる。雅代は真子をベビーベッドに寝かせ、そっと布団をかけてから、寝室のドアに向かう。すると、眠たいのを我慢し、細い目を開けている咲子が掛布団から顔を出して、雅代を呼びとめた。
「ママ。今日、桃ちゃんがね」
待っていました、と言わんばかりに咲子が声を光らせて、話しかけてくる。しかし、雅代にはすでに誰かの言動を受け入れられるだけの余裕がなかった。子どもは遊ぶのが仕事、と言われるが、大人は子どもが遊んでいる間も、遊び終わった後も仕事が続く。
「分かったから。いい子だから、もう寝なさい」
雅代は仕方なしに咲子の話を遮り、寝室のドアに手をかけた。
それは狭い世界しか知らない子どもにとって、唯一身近に感じる裏切り。
「嘘吐き! 意地悪!」
「嘘吐きでも、意地悪でもいいから。ね。おやすみ」
雅代は寝室を出て、娘二人を残して、ドアを閉めた。
戻ると、テーブルの上には性懲りもなく夕食の食器が残っている。英二はテレビの前に横たわって、俯いている。その視線がテレビ画面に向いていないことから、すでに眠りかけているのだと察して、雅代は乱暴に食器の音を立て、ご飯粒のついた茶碗やら冷めた茶の残った湯のみやらを台所に運んだ。
食器の耳障りな音に、英二はピクッと首を動かす。
けれど、すぐに夢の中へ戻っていき、また動かなくなるので、雅代は静かにスポンジに洗剤をしみ込ませ、台所のシンクに溜まった食器を洗い始めた。この世のどこかで勃発する紛争と比べれば、まだまだ甘い我儘と苛立ちではあるけれど、来る日も来る日も、朝から晩までこなさなければならない家事と育児に、雅代はよく殺意を覚える。全てを破壊したい。そういう欲求に駆られ、誰かに立場を代わって欲しい、と願うことさえある。
でも、雅代が代役を依頼することはない。当然ながら一人で暮らそうものなら、生活スタイルは自由気儘、その上、侵害されない時間と空間が手に入る。ただ、それだけをとって、人生の醍醐味は味わえない。働いていなくとも、住んでいる家に人がいれば、要求が生まれる。旦那や娘の口から思いがけない会話を始められる。すると、それらを効率的に処理することが自分に与えられた役目で、その達成感に酔いしれることが味わうべき幸せなのだ、と雅代は考えるより先に直感で理解する。けれど、全てを叶えられることはできない。母親にもエゴがある。時間をおいてから浮上してくる不甲斐なさ。
雅代の場合、それはいつも自己嫌悪に変わる。
しかし、住んでいる家に人がいれば、一人きりでは気づけない発見がある。世間話にさえならない小さな発見だけれど、雅代は時々それを思い返しては嬉しくて頬を緩めている。
例えば、咲子はもう一人でトイレに行ける。それは今年になってからできるようになったことだ。去年の咲子は雅代がいなければ小便をすることもできなかった。そんな他愛もない成長。生まれた時は息をすることさえままならなかった娘の成長。いつも見守っていなければ感じることのできない喜びを噛みしめ、雅代は今の生活をどうにか乗り越えている。
食器を半分ほど洗い終えると、寝室から咲子が出てきた。
裸足でフローリングをぺたぺたと鳴らし、目から涙をぼろぼろ流している。
雅代は慌てて濡れた手をタオルで拭いて、咲子に駆け寄った。
「どうしたの? 一体」
「あど、ねっ。うえ。だくなっ。ひっ。ちゃっだ」
「落ち着いて。どうしたの? ゆっくり話してごらん」
雅代が咲子の背中を擦っていると、泣き声に反応して、英二が目を覚まし、咲子に目を向けた。ただ事ではない、と思ったのか、見ていなかったテレビを消して、近づいてくる。
「だくなっちゃった」
「なくなっちゃった? なくなっちゃったの? 何がなくなっちゃったの?」
雅代はなだめながら、優しく訊き返す。けれど、咲子は咽びながら話すので、言わんとすることが上手く聞き取れない。すると、英二が目線を咲子に合わせて、訊いた。
「マフラーか?」
その声に、咲子が頷く。
「どうして分かったの?」
雅代は驚いて、英二を見る。
「いや、何となく。最近、大事そうにしてたから」
そのぶっきらぼうな口調に、雅代はムッとするが、堪えて咲子に訊き返す。
「マフラーなくしちゃったの?」
咲子はもう一度頷く。
「分かった。じゃあ、明日探しに行こう。だから、今日は寝なさい。あまり起きていたら、明日眠たくなって、探しに行けないよ?」
咲子の泣き声は寝室にも聞こえるほど大きかった。その所為で、ベビーベッドに寝ている真子も目を覚まして、泣き始めてしまう。雅代は咲子を英二に任せて、真子の元へ急いだ。その後、娘二人は寝かしつけ、食器を片づけてから、雅代は布団に入った。
寝室へ入る前の時計はすでに日付が変わっていた。どうして失くした物がマフラーであることに英二より先に気づけなかったのかとか、道端に落としたのならマフラーはもう見つからないかもしれないとか。雅代は布団の中であれこれ考えたが、悩んで、寝つけなくなったって、朝が来ればやらなければならない家事と育児はなくならない、そう思い直して、小さな溜息を吐いた。隣の布団では咲子がすやすやと眠っている。
その寝顔にキスをして、雅代は目を閉じた。
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