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大輝は付き合いたての詩織と夜を過ごした。詩織は日が昇っても生まれたままの姿でベッドに横たわっている。昼過ぎからのアルバイトに遅れないよう、大輝はいい加減に目を覚ましたかったが、真横に寝ている女がだらしない生活を見せつけてくるので、なかなか振り払うことができない。大輝は昨晩もアルバイトのシフトに入っていた。
詩織は渡した合鍵で先に自宅に入っていて、深夜に帰ってきた大輝を出迎えた。
「お帰りなさい!」
大輝は鍵を閉め、靴を脱いだ。身体は疲れていた。けれど、すぐさま詩織に抱き締められ、唇を奪われる。そこからは会話のないコミュニケーションだった。押し倒し、押し倒されの繰り返しで、まるで獣のように、相手を受け入れ、寂しさを埋めた。帰宅したのは遅かったが、夜は長かった。大輝は手探りでスマートフォンを見つけ、時刻を確認すると、気だるい身体をベッドから起こして、アルバイト先へ向かう支度を始めた。
「どこ行くの?」
物音に目を覚まして、詩織が横たわったまま訊いてくる。
「バイト。あと一時間だから。終わりは夕方」
「休んじゃえば?」
「あほ。行くわ」
デニムのベルトをかちゃかちゃと鳴らしながら、締めると、背後にあるベッドの上から不機嫌がフワッと漂ってきて、大輝は煩わしくなった。これまで幾度と感じた感覚。付き合い始めると、大輝はいつも同じことを思い知らされる。準備運動も、ライン前の構えにも欠点などない。さらに言えば、スタートダッシュも順調、なのに、すぐに失速する。互いの気持ちを確認し、幸せの泉に足を踏み入れる。一緒に肩まで浸かる。キスもできる。包み隠さず、この世の全てを忘れられるような、素晴らしい一夜を過ごすことができる。
少なくとも、大輝には、それができた、という実感があった。それなのに、いつも現実に戻った途端、相手はすでに冷めている。詩織もこれまで付き合い、別れた女と同じだった。もしも、もっとなだらかな変化で現実に戻ることができたならいいのかもしれない。けれど、人は日の出ているうちに活動するものである。そういう当たり前がある以上、気持ちを切り替える要因は基本、専門学校の講義とか、アルバイトのシフトにならざるを得ない。
大輝は詩織を残して、玄関のドアを閉めた。
近所にあるアルバイト先のコンビニエンスストアに入り、スタッフルームで着替えて、レジに立った。駅から離れた場所にあるため、利用客は多くない。だから、必死に応対しなくても、業務は回っていける。大輝は慣れた手つきでレジを打ちながら、自宅に残してきた詩織のことが頭から離れず、ぼんやりと考えた。
例えば、先にベッドを出るのが大輝でなかったら、違うのかもしれない。
付き合っている女が先に起きたら、だらしなくベッドに寝そべる大輝を見て、母性本能を働かせ、可愛い、と思ってくれるかもしれない。そうなれば、関係は失速することなく、続いていくのかもしれない。でも、きっとその時、相手が自分に向ける優しい眼差しには、彼氏を支えられる自信と優越感が宿っているに違いない。
大輝はいつもそう考えてしまう。
「あの、すみません」
「はい。何でしょう?」
店内に無精髭の男が入ってくる。しかし、その男は商品を選ぶでもなく、ずかずかとレジに歩いてきて、大輝の前に立った。
「昨日、ここらで忘れ物とかなかったですかね。娘がマフラーをなくしまして、紫色のマフラーなんですが。近所を探してるんです」
大輝は自宅からコンビニエンスストアに歩いてくる途中、道端に置いてあった茶色の紙袋を思い出した。白いメモ用紙が貼ってあり、気になって、中身を覗くと、綺麗に畳まれたマフラーが入っていた。
「ああ、それなら。ここを出て、左に曲がって、少し行った歩道の脇に置いてありましたよ。茶色の紙袋に入っていて、洗っときました、ってメモが貼ってあります」
「え、えっ? ほんとですか? あ、ありがとうございます」
無精髭の男は信じられないのか、納得のいかない様子で、お礼を言い、店を出ていく。お礼を言うべき相手は自分ではないのに、と思いながらも、大輝は頭を下げた。世の中にはとんだ善人もいるものだ、と感心してしまう。分厚いコートに手袋をした無精髭の男は肩を震わせながら、店先を左に曲がり、見えなくなる。すると、店内のトイレから出てきた男がレジに歩いてきて、珈琲を注文した。支払いを済ませ、大輝はレシートを渡した。
「それとさ、店員さん。もしもお客に子供用のマフラーを探していると尋ねられるようなことがあったら、この店を左に行った先の紙袋にあるよ、って伝えてくんない?」
次の瞬間、大輝はつい店中に響く声で笑った。
「どうした? 俺、何か可笑しなこと言ったか?」
「い、いや。あんた、すごいや!」
大輝はこの出来事を今すぐ誰かに話したくなった。話して、この気持ちを共有したかった。珈琲を注文した男は二十代ほど若くなかった。大輝が経緯を説明すると、軽い笑みを浮かべて、ならいいや、と言い、珈琲の紙コップを持って、店を出た。店の前で立ち尽くし、男は珈琲を飲んでいる。寒空の下、熱い飲み物で身体を温めながら、白い息を吐き出している。大輝は店内に誰もいないことを確認してから、隠し持っていたスマートフォンを使って、詩織にメッセージを送った。この出来事を話す相手に、最初に思い浮かんだのが詩織だったからだ。もしかしたら、すでに大輝の家を後にしているかもしれないと思っていたが、詩織からのメッセージはすぐに返ってきた。
大輝が店のガラス越しに男を見ていると、男は珈琲を飲み終え、大輝の視線に気づいて、手を振り、コンビニエンスストアを離れていく。まだシフトの時間が終わるまでしばらくあるが、終わったら、二人分の弁当を買って帰ろう、と大輝は思った。ついでにデザートも買ったら、詩織はどんな顔をするだろう。大輝はそんなことを考えるのが楽しかった。
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