マフラー

1/3
前へ
/3ページ
次へ
 深夜のコンビニエンスストアで孝央は珈琲を買った。  手動のドアノブを押し開け、肌寒い外へ出る。すると、ドアを出入りする人の邪魔にならない脇に立ち、買ったばかりの珈琲の紙コップの上についているプラスチックの飲み口を開けて、挽き立ての味を口に入れた。苦みはさほど感じない。それよりもコートの上に露出している頬を撫でる冬の冷たさ、それと対照的に喉を焦がして落ちていく液体の熱さに驚いて、つい飲み口から口を離した。息が白い。  孝央は夜空に吐き出す息の白さを面白半分に月に吹きかけながら、珈琲を飲んだ。  人の邪魔にならない脇に立っても、辺りに人はいない。働いている営業所の忘年会を二次会まで参加した帰り道、夜はすっかり更けている上に、コンビニエンスストアは駅から少々離れた場所にある。孝央の自宅はもうしばらく歩いた先にあった。わざわざ寄り道をして珈琲など飲まずに我慢して歩き続ければさほど遠くはなかった。けれど、それでも一息吐かなければ自宅のドアの鍵を開け、内側から施錠し、のそのそと居間に敷かれたカーペットに倒れ込むまでたどり着けない、と孝央は思った。  酔いは地下鉄を下りて、コンビニエンスストアに歩いてくる間にすっかり覚めた。一次会はもつ鍋、二次会は焼き鳥だった。たらふく食べたおかげで胃袋が重たい。けれど、それに比例して、さほど幸福を感じてはいない。幸せは腹を満たすことであるけれど、腹を満たすことが幸せとは限らない。いかに嫌な想いをせずに時間を過ごせるか。そこに飲みの席での幸福は隠れている。上司の准一は聞き心地の悪い声をしていた。 「清水。お前は本当に甘いよ。だから、あんな成績しか残せないんだ」 「そうですかね。僕はけっこう満足してますけど。あ、柳沢さんも砂肝食べます?」 「それだよ、それ! 馬鹿野郎か? お前は。本当に。そんなんだから、三年目の下田に抜かれるんだよ! いい加減、分かれ。この重大さに!」 「よく分かりました。それで、砂肝食べます?」 「おい、調子乗んなよ。いいか? 俺はお前のためにこうして貴重な時間を作ってやってんの! はっきり言って、お前の人生、終わってるからな? 嫁なし。子どもなし。結婚の予定もなし。その上、彼女もいなくて、三十過ぎ。いいか、世の中ってのは経歴で人を判断すんだよ。だから、何も積み重ねてない奴は不良品と同じなんだ。可哀想に。お前のことだよ。その点、下田は優秀だぜ。先月の成績で、本社の人事部も気にしてるって噂だ」  孝央は夜空にもう一息吐き出した。  まき散らした白さが一瞬で見えなくなる様をぼんやりと眺め、飲み干した紙コップをゴミ箱に入れる。准一の言葉遣いはよく人の気に障ることが多かった。その所為で、部下の苦労は絶えない。孝央はガラス越しにコンビニエンスストアの店内をちらりと見た。レジには先ほど会計を応対してくれた大学生らしきアルバイトが立っていた。孝央はそのアルバイト店員のことを知らない。当然ながら二人の関係はこの世の中に掃いて捨てるほどある無関係である。孝央は重たい身体を自宅のカーペットに横たえるため、コンビニエンスストアを離れた。営業所の忘年会、二次会に参加したのは孝央だけだった。  しばらく歩き続け、コンビニエンスストアが見えなくなる。夜道は暗い。けれど、安直に抱くイメージほど、真っ暗ということはない。通り沿いにある四階建てのマンションでは住人共有の階段に設置された電灯が誰のためにもならない光を放ち続け、歩道に立っている街灯は点滅しながら孝央の行く先を照らしている。人の暮らす痕跡が目で見て分かる帰り道は月より明るく感じた。孝央は疲労を自覚し、身体を引きずるように足を動かした。すると、街灯の届かないアスファルトの上で落とし物を踏みつけ、孝央は足元を凝視した。  踏みつけたものは紫と黄で編み込まれたマフラーだった。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加