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終幕
出会ってから今夜で、ちょうど一ヶ月経過した。何事もなく、暖かな日々を過ごしている。さて、明日は休みだ。どこに出かけようか。
私は足取りも軽く家路を急ぐ。
夕方の六時過ぎ。もう当たり前のように夜空な空を見上げてみると、あの日と同じように腰かけられそうな三日月が、ぼんやりと在った。
雪がひらほら舞い落ちるなか、私は橋の真ん中で女の子をみつけた。欄干に背をあずけて、そっと在った。
あの日と違って女の子は立っている。この間買ってあげたばかりの、ピンクのダウンジャケットを着て。そして、私を見つめる顔は嬉しそうでもあり、さみしそうでもあり。
黄色の街灯の環の中で照らされる雪は、まるでほたるのように見える。
「やあ、待っていてくれたのかい?」
近づいて声をかけた私に、女の子はそっと右手を差し出した。
あの日と逆に、今度は私が握った。
その瞬間、二年前の抜け落ちた記憶がよみがえった。結実の顔もはっきりと見える。その顔は目の前に、そっと在った。
「お父さん、あのね、これ……」
キッチンに向かう私に、結実は何かを渡そうとするようにすがりついた。私はそれを軽く払った。そう。ほんの軽くだったんだ。ドンッと鈍い音がして振り返ると、結実は倒れていた。結実、結実、と必死に呼びかけても返事はなかった。右のこめかみから流れた血が、粘りつくようにゆっくりと床に広がっていった。そして、大きな澄んだ黒い瞳が、ただの黒に変わっていった。それは幼い頃に見た、飼い猫の死に際の目と同じだった。
倒れた結実の側には白い紙が一枚あった。さっきまで丸まっていたのか、完全に広がりきってはいなかった。それでも見えた絵には、結実を真ん中に、左に私が、右に妻が描かれていた。ほたるの光で満たされた川の前で、仲良く三人で手をつないだ絵。
私は叫びだしそうになるのを、必死に両手で押さえた。飲んだ声が黒く渦巻いた。
救急車を呼んで到着するまでの間に、私は絵をキッチンで燃やした。救急車が到着しても、私のせいでこうなったことは黙っていた。私のせいではない。取り返しのつかない恐怖が、私をそんな思いにさせた。
そうだ。私は醜い親だったんだ。
「ありがとう。すべて思い出したよ。きみは初めからなかったんだね。いや、私の中だけに在ったのかな」
女の子は微笑んでくれたのだろうか? あまりにも淡く、儚く、揺れているようで、私は上手く読み取れなかった。
そして、もの言わぬ女の子はふっと消えた。
残された、私の握る手が光っている。
手を開くと、その光が澄んだ優しそうな輝きをはなちながら舞い上がった。
私はそれを追うように手を伸ばす。
光は三日月を目指すように舞い上がり続ける。
ふっ、と私も舞い上がったような気がした。だが、追い求める光は遠ざかっていく。
ドブン。
私をいきなり包んだ水の冷たさが優しい。
見上げる川面の先で、ほたるが舞うように光の線を描いている。さらにその先の揺れる三日月を円で囲むように。
やっと楽になれる。
私はもう一度、ありがとうと呟いた。
月のほたるに向かって。
了
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