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◆
「ごめんね。今までありがとう」
寂しさの中に優しさが入り混じった不思議な声で、優衣は言った。
こちらこそありがとう。
お礼を言いたいのは僕の方なのに、言葉が声にならない。
優衣と過ごした、決して短くない日々の思い出が、走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。
覚悟できていたから、悲しさはなかった。今思えば、一か月前彼女にぶたれたあの時、すでにこうなる予感があったのかもしれない。
彼女がこの世を去る瞬間まで添い遂げたいと願いつつ、一方でそれは叶わぬ願いであることを、僕は知っていた。
歯車がたった一つ狂っただけで、僕らはいとも簡単に壊れてしまう。そうなったら最後、二度と同じ時間を刻むことはできない。
僕らは出会った瞬間から、別れる運命にあったのだ。
それがたまたま今日だった。ただ、それだけのことだ。
だけどこれから先、隣で眠る優衣の寝顔を見られなくなると思うと、やっぱり少しだけ、離れがたいなぁって思ってしまう。
あぁもう、未練がましくって嫌になるなぁ。
歩き出した優衣の背中に、僕は再び心の中で繰り返す。届かなくても、何度でも、何度でも。
こちらこそありがとう。そして、さよなら。
これからもずっと、僕は優衣のことが大好きだよ。
◇
大学の講義中。一番端っこの席を陣取った私は、教授の熱弁をBGMに、窓の外の蝶々を無意識に目で追っていた。
別に、春の暖かな陽気に釣られたからではない。
「ねぇ優衣」
隣の席から急に名前を呼ばれて我に返ると、さっきまで必死に板書を写していたはずの彩が、私の手元を見ながら眉間に皺を寄せていた。
「そのシャーペン、確か前の彼氏から貰ったやつじゃなかった?」
よく見ているなぁと感心しつつ、別に疚しいことでもないから、正直に答えた。
「うん」
「別れたんだったら使うのやめた方が良くない? 指輪とかネックレスならともかく、シャーペンなんてすぐに買い換えられるじゃん」
親友からの至極ごもっともな指摘に、私は「んー、」と唸りつつ、反論のための言葉を選ぶ。
一応私にだって言い分というか、モットーみたいなものはあるのだ。
「だって、物に罪は無いじゃん」
言いながら、渦中のペンを指先でくるくると回してみた。やっぱり長く使ってるだけあってシックリくる。
彩は呆れたとでも言いたげにはぁ、とわざとらしく息を吐いた。
「物持ちがいいのは結構だけどさ、自分が大樹先輩に捨てられないように、せいぜい気を付けなよ」
「……ねぇ、今上手いこと言ったって思ったでしょ?」
「うっさい。私は忠告したから」
「はーい。ありがとね、彩」
「ん。それからもう一個」
「なに?」
「さっきからぼーっとして、何考えてるのか知んないけどさ、授業中ぐらい集中しなよ。悩みなら後でいくらでも聞いたげるから」
「彩ってほんと優しいよね。口は悪いのに」
「一言余計だっつーの。後でノート見せてとか言われても、絶対貸さないからね」
思わずふふっと声が漏れそうになったけど、これ以上ツンデレな親友を怒らせると後が怖いので、グッと堪える。
私はもう一度だけシャーペンをくるりと回し、言われた通り、集中モードへと移行することにした。
◆
「ただいま」
優衣が大学から帰ってきた。家に誰もいなくてもちゃんとただいまと言っちゃうところに、彼女の素直さがよく表れているなぁと思う。
部屋に戻った優衣はまず着ている服を脱ぎ始めた。
「家の中では部屋着でいないと落ち着かない」、だよね。ちゃんと覚えてるよ。
下着姿になった彼女は衣装ケースからスウェットを引っ張り出し、いつものように左足から履いてゆく。
着替えを終えた優衣は、ソファに寝そべって誰かと話し始めた。ここ最近は、夕方になると毎日こうだ。
相手は男の人かな? だってほら、アヒル口と猫なで声、出ちゃってる。甘える時のクセは相変わらずだね。
……昔はあんなに僕だけに夢中だったのに、嫉妬しちゃうなぁ。
なんてねっ! そんなのウソ。
だって優衣に抱き締められた回数も、キスされた回数も、一緒に寝た回数も。全部僕が一番に決まってるんだもん。
だから全然、嫉妬なんてしてないよ。
僕はずっと、優衣の幸せだけを願っているからね。
◇
授業を終えて帰宅したらすぐ、落ち着ける格好に着替えて、スマートフォンを手に取る。LINEのアプリを起動、そしてトーク履歴の一番上「大樹くん」を選択して、通話ボタンを押す。
数秒の呼び出し音ののち、電話が繋がった。
「お仕事お疲れ様」
「おう。優衣も授業お疲れさん」
今日一日の疲れが一瞬で吹き飛んでしまうような心地良い低音ボイスが、電話越しに鼓膜を震わす。
サークルの先輩だった大樹くんは、この春に大学を卒業して、現在は社会人として奮闘中。
大学時代より会える回数は減ったけど、平日は電話、休日は私の家でまったり過ごす、というのが二人の新しいルーティーンになりつつあった。
と言っても、土曜日のお昼頃に遊びに来て、終電前には帰ってしまうのだが。
正直、欲求不満が無いと言えば嘘になるけど、付き合い始めてまだたったの三ヶ月だし、しかたないということにしておく。
そういうのも含めて、今が一番甘酸っぱくて、楽しい時期なのだろう。
「そういえば今日ね、彩ったら授業中に、…………」
大樹くんは、お喋り好きな私の操縦が上手い。
授業の話、サークルの話、彩の話。取り留めのない私の話を、彼はいつもうん、うんって相槌を打ちながら聞いてくれる。
私のとっても、幸せな瞬間。
今日もいつもどおり、学校での出来事を面白おかしく話していた、つもりだったけれど。
「優衣。何かあった?」
急に大樹くんの声のトーンが変わった。気軽な感じを装いつつ、だけど、とても心配そうな声。
「……さすがだなぁ。やっぱり、大樹くんに隠し事はできないや」
「なんかちょっとだけ、元気無いような気がしたから。俺で良ければ話聞くよ」
「んー、何かあったってほどじゃないんだけど。実は最近、常に誰かの視線を感じるような気がして」
「えっと、それはつまり、ストーカーがいるかもしれないってこと?」
「そ、そんな大袈裟なやつじゃないよ。たぶん」
「いつから?」
「気付いたのは最近なんだけど、よくよく考えてみたら、その」
「言いにくい?」
「ううん。えっと、気を悪くしないでね。前の彼氏と別れた後ぐらいから、おかしなことが続いてたような」
「例えば?」
「コインランドリーで目を離した隙に、なんと下着が消失してましたー、とか」
わざとらしくおどけた調子で言ってみる。これ以上、大樹くんに気を遣わせたくない。
「なんでそういう大事なこと、もっと早く言わないんだよ」
大樹くんの声色がまた変わった。明らかに怒っている時のそれだ。
「ごめんね。お仕事忙しいだろうから、余計な心配かけたくなくって」
「バカ。心配に決まってるだろ」
「そうだよね。だから、あまり気にしなくても」
「そうじゃなくて、」大樹くんが強い口調で私の言葉を遮った。
「何かあってからじゃ、守ってあげられないだろうが。だから、頼りないかもしれないけど、気なんか遣わずもっと俺を頼ってくれよ。だって俺はほら、あの、彼氏、なんだからさ」
後半の方は恥ずかしかったのか、小声でもにょもにょ言っていた。かわいい。口角が吊り上がるのを抑えられない。
今頃電話の向こうで真っ赤になって照れているのだろうか。想像したら少しだけ、気分が晴れたような気がした。
「ふふっ、そうだね。ごめん」
「と、とにかく、また何か変なことがあった時はすぐ俺に言えよ。力になるから」
「うん! ありがと、大樹くん。……ねぇ、明後日もうち、来る?」
「優衣が良ければ、またお邪魔させてもらおうかな」
「わかった。待ってる」
「あと、そのことで一つ提案があるんだけどさ、万が一ストーカーが来てもいいように、日曜日も優衣の家にいようかなって思うんだけど」
「それは、お泊りするってこと?」
「嫌かな?」
「ううん、すごく嬉しい」
電話を切った後、しばらく余韻に浸っていた。
今日の雰囲気なら、もしかしたら今までより一歩進んだ関係になっちゃったり? なんて、邪な期待につい口元が緩んでしまう。
「よし! あと一日学校頑張るぞ! あと、明日は帰ったら部屋の掃除!」
誰にともなく宣言をして、お風呂の準備に取り掛かった。
◆
優衣がお風呂から上がってきた。今日は、いつもより少し早かったね。
下着もつけずに鏡の前で、二の腕の肉をつまんだり、お腹の肉をつまんだり。
誰かに見せる予定でもあるのかな?
あれ。
毎日眺めてるから気が付かなかったけど、最近、お尻がちょっとふっくらしてきた?
あっ、ダメだよ優衣! 身体が濡れたまま扇風機になんて当たったら、風邪を引いちゃうよ!
あぁ、僕が君の身体を隅々まで、拭いてあげられたらなぁ。
その、艶やかな黒髪も、華奢な鎖骨周りも、柔らかそうな太腿も。
もどかしいよ。僕が君の身体を全部、包み込んであげられれば良いのに。
あっ、もう出るんだね。行ってらっしゃい。今日もこの後、お風呂上がりの牛乳を飲むのかな?
お腹、冷やさないようにね。
◆
「ただいまー!」
おかえり優衣。スキップなんかしちゃって、今日はまたえらく上機嫌だね。
おや。
今日は学校から家まで、走って帰ってきたのかな?
わかるよ。だってさっきまで君の足を包んでいたブーツからは、まだしっかりと君の温もりが感じられるし、おまけにほんのりと酸っぱい汗の匂いがするからね。
こっちのパンプスの方はまだ、新品特有の臭みが消えてないから、混ざり合ってすごいことになってるね。
優衣って古い靴も全然捨てないから、そろそろ新しく買った靴の置き場が、なくなっちゃいそうだよ。
だけどそんな、物を大事にする優衣のことが、僕は大好きだよ。
◆
抜け落ちた髪の毛。爪の欠片。部屋の隅々に散らばった優衣の一部を、口から吸い込んで体内に蓄えてゆく。
まるで、優衣と一つになったみたい。
ふふっなんちゃって。
◇
掃除もばっちりして、迎えた土曜日。
「えっと、いらっしゃい。大樹くん」
「お、おう。お邪魔します」
なんだか、大樹くんの雰囲気がいつもと違う気がする。ソワソワしてるというか、浮足立ってる感じ。私も意識し過ぎちゃって、人のことは言えないのだけれど。
借りてきた映画を観て、テレビゲームで盛り上がって、一緒に作った夕飯を食べた。
ここまではいつもどおり。
その後、大樹くんは初めて私の家でお風呂に入り、私もまた身体の隅々まで入念に清め……なんとなく、二人並んでベッドの縁に腰かけた。
どちらともなく、座ったままで距離を詰めてゆく。
この時の私たちはきっと、この後の展開への期待感を、お互い口に出さなくとも共有していたと思う。
大樹くんが私の後頭部に手を回し、啄むようなキスを落としたのを合図に、重力に従ってごく自然に、ベッドへと倒れこむ。
そしてそのまま、二つの身体は磁石のように引き寄せられ、深く絡み合い、一つに溶けていった。
◆
下着姿の優衣が、ベッドの上で男性と睦み合う姿を、ひたすら眺めていた。男性の方はすでに全裸で、優衣の手が慈しむように男性の身体を撫で上げてゆく。
これまで幾度となく僕の身体に触れた、柔らかなその手で。
今までも数回見たことのある光景だけれど、こういう時、僕はどうしていいのかわからない。
と言っても、僕はこの場所から自分の意志で移動できないから、眺め続けるよりほかないんだけど。
人間の生殖行為がもたらす幸福感について、僕はよくわからない。だけど少なくとも今、彼女の顔は幸福な時のそれのように見えた。
それで十分だった。彼女が今幸せなら、僕はそれで満足だ。
だって、優衣の幸せが「僕たち」の一番の願いだから。
不意に、背後から不穏な気配を感じた。振り返って見れば、かつて優衣のパートナーだった男が、僕越しに部屋の中を覗こうとしているようだった。
なるほど、これが彼女の言っていた「視線」の正体だったってわけか。コインランドリーで下着を盗んだのも、おそらくこの男なのだろう。
ただ残念だけど、優衣に「捨てられた」ような奴の出る幕は、ここには無い。
僕たちは皆彼女の幸せを祈り、ずっと見守り続けてきた。それを邪魔するような奴は、僕たちが絶対に許さない。
とはいえ、声の出せない僕たち「物」にできることなんて一つしかない。
僕らは呼吸を合わせ、皆で一斉に身体を震わせるため、力をグッと溜め込む。
そして。
◇
「なんだ? 地震か?」
「うっそー、タイミング悪過ぎ」
大樹くんが私の下着に手をかけた瞬間だった。急に家中のありとあらゆる物が、ガタガタと音を立てて揺れ始めた。
そこそこ大きな地震だ。大樹くんが私をかばうように、覆いかぶさってくれた。
数十秒経っても、揺れは一向に収まる気配がない。
本棚の上のクマのぬいぐるみが、コロリと横転した。
壁に立てかけた掃除機が、バタンッと音を立てて倒れた。
そして、セットした覚えのない目覚まし時計が、ジリジリと警鐘のような音を鳴らしながら、床に落下していった。
「相当でかい地震みたいだな。窓、すっげぇガタガタいってるぞ」
大樹くんがそう言いながら何気なくカーテンを開いた。するとそこにはなぜか、もう二度と会うことはないはずだった人物が、部屋の中を覗くような姿勢で立っていて……。
「えっ? あっ」
彼は窓越しに私と目が合った途端、素っ頓狂な声を上げて走り去って行った。
「知り合い?」困ったような顔で尋ねる大樹くんに、私は苦笑いで答えるしかなかった。
「えっと、元カレ、だったと思う」
◇
ストーカーと化していた元カレを発見した直後、大樹くんはすぐ一一〇番通報し、事の顛末を警察に説明してくれ、私はそのスマートな対応に惚れ直した……までは良かったんだけど、彼は私をストーカーから守る、という大義名分がなくなった以上、長居してはいけないと判断してしまったらしい。地震で荒れた部屋の片付けを手伝ってくれた後、朝一でさっさと自宅へ帰ってしまった。
残念だけど、甘い展開はしばらく、お預けらしい。
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃーい」
大樹くんと入れ替わりで、彩が我が家に遊びに来た。昨夜の出来事を「冷やかしに行く」なんて言ってたけど、きっと彩のことだから、私がいろんな意味でショックを受けてると思って、飛んで来てくれたのだろう。
「優衣の家ってさ、ほんといつ来ても片付いてるよね。靴箱までピッカピカじゃん」
玄関に入ってすぐに彩が言った。一応、開けないように念を押しておく。
今は新しい靴買っても置き場がないほどぎっしり中身が詰まっているので、少し恥ずかしい。
「で? ここが噂の、奥手な大樹先輩を欲情させた浴場?」
「ちょっと、恥ずかしいから変な言い方しないで!」
「恥ずかしいって言うならまず、この破れかけのバスマットなんとかしたら? 新しいやつ買いなよ」
「それは実家から持ってきたお気に入りだから絶対ダメ!」
「ふーん、あっちの片目取れかけたクマのぬいぐるみも?」
「あの子は幼稚園の時、毎日一緒に寝てたお友達なの!」
「あっそ」彩はお手上げと言わんばかりに、肩を竦めて笑っていた。
散々人の家の物にケチを付けて回る失礼な彩が最後に立ち止まったのは、ベッド脇の台の前だった。
「久しぶりに見たよ、押して止めるタイプの目覚まし時計。ケータイのアラーム、じゃダメなんだよね。優衣は」
「うん、これは小学校に入学した時、お母さんが買ってくれた、大切な目覚まし時計だから。……昨日の夜、壊れちゃったんだけどね」
「そうなの?」
「うん。一か月ぐらい前に寝ぼけて強く叩きすぎちゃってさ。それからずっと調子悪かったんだけど、昨日の地震で床に落ちた時、完全に壊れちゃったみたい」
「地震なんてあった?」
「あったじゃん、結構大きいやつ」
「ふーん、寝てて全然気付かなかったよ。それで、その時計はどうするの? さすがに捨てる?」
「お別れしてくる。悲しいけど」
「何それ。つまりは捨てるんじゃん、言い方変えただけで」
私は「んー、」と唸りつつ、親友の意地悪な質問に対する答えを探す。
確かに、捨てるという言葉を使いたくないだけで、結局は同じことするのは事実なわけで。
だけど。
「上手く言えないんだけど、私、物にも『心』ってあると思うの。『一寸の虫にも五分の魂』って言う言葉があるでしょ? だから、『捨てる』じゃなくて『別れる』なの。同じ心ある存在に対して、今までの感謝を込めて」
「物と虫は違うでしょ。ま、でも、優衣が言うならあるのかな。心」
彩は意外にもあっさり認めて、壊れた時計の表面を、優しく撫でてくれた。
それから「よしっ」と言って、玄関に向かって歩き出した。
「行くよ」
「行くってどこに?」困惑する私に彩は言った。
「愛する時計ちゃんとのお別れの現場に立ち会ってあげる。暇だから」
二人で時計をゴミ置き場に持って行く。道中、今まで時計と一緒に過ごしてきた、決して短くない日々を思い出す。
彩にバレないように、こっそり目尻を指で拭ったつもりだったけど、結局バレて、優しく頭を撫でられてしまった。
私一人だったら、たぶんちゃんと「お別れ」できなかったし、彩もそれをわかっていたから着いてきてくれたのだろう。
こんなにもツンデレな親友を持って、私は本当に幸せ者だと思う。
ゴミ置き場に着いた。時計にこれ以上衝撃を与えないよう、ゆっくりと優しく、端の方に立てかけた。
「ごめんね。今までありがとう」
物に心があるのかなんて、実際のところわからない。ただ、そう思って大事に使うように、心掛けてきたというだけ。
「戻ろう、彩」
「もういいの?」
「うん、大丈夫」
帰りがけに一瞬立ち止まり、最後にもう一度だけ、愛しい時計の音に耳を澄ます。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
もしもこの、不規則に刻まれる壊れた秒針が、「こちらこそありがとう」って言ってくれているのだとしたら、嬉しいな、と私は思った。
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