一度きりの新婚旅行

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 妻はあの日、言っていた。 「言いたいことがあるの」 「何?」 私はその妻の言葉に普段通りの口調で言う。 「今日、私の誕生日…。一度でいいから、あなたの前で誕生日ケーキの蝋燭を吹き消したい」 私は仕事が忙しいという理由で、これまで妻の誕生日を祝うことはなかった。 一度も妻から誕生日という言葉を聞かなったので、私も気にすることはなかった。 しかし、あの時は、妻が誕生日ケーキを欲しがった。 「仕事だからな…」 私は、仕事で疲れているからといつものように言い訳が口から出る。 「何時でもいいから待ってる」 あの時の妻は意思を持っていた。 「わかった、なるべく、残業しないで帰ってくるようにする。そうしたら、行こう」 私が行こうと言った後の妻の表情は、今でも目の前にいるかのように思い出せる。 あのふわりとした頬が上がり、薄紅に赤らみ、瞳は大きく、黒真珠のような丸い瞳。 目の前にケーキが見えているかのような無邪気な表情だった。 その日は、朝一番で上司に頭を下げて、残業しないようにせっせと仕事をこなした。 家に帰ると、すでに妻は外出できる装いで待っていた。 今日だけでも、妻に楽をしてもらおうと、私が車を出そうとする。 「え、私の車でいいよ、だって、疲れているでしょ?」 しかし、妻はそう言って、妻の車に向かうと運転席側に乗った。 私は妻の言葉に甘えて助手席に乗った。 夕暮れが空を赤く染める。 それは次第に暗がりへと変わっていく。 その移りゆく空を見上げながら、私は助手席に乗っていた。 ケーキ屋さんに着いた。 妻はケーキのショーウィンドウの前でしゃがみ込み、ケーキを選び始める。 ショーウィンドウの中のショートケーキは照明に当たって、苺は、より赤く、生クリームは、より白く映る。 ホールケーキも同様に色鮮やかな果物で彩られて、妻の目を楽しませる。 このケーキも良いし、このケーキも美味しそう、こっちは期間限定…と、選ぶのにずいぶんと時間がかかった。 店員さんも困惑しているのが、口角の上がりきらない作り笑顔で窺える。 私は呆れた表情で、妻の後ろ姿を見ていた。 確かに他のお客さんの迷惑にもなっているし、店員さんを困らせているが、こんな妻が好きだった。 興味のあるものに夢中になって、子供のように目をきらきらとさせる妻が愛くるしかった。 「どうするんだい」 私は、建前の呆れた表情の中に口角を緩ませながら、妻に言った。 「だって、今日は特別な日だから」 妻は、そう言いながらじっくりと吟味して、ようやく妻が決めたケーキを購入した。 帰る時、私は、誕生日の妻に少しでも何かしたいと感じた私は運転を替わった。 帰路はもう藍色の空が広がり、辺りの街灯が煌びやかに彩っていた。 あの時、私が運転を替わらなければ、事故は起きなかった? 「来年からは、きっとお互いの誕生日を祝えなくなるから、だから、今日して欲しかったの」 妻はケーキを箱の小窓から覗きながら言う。 「ん? 仕事の状況にもよるけど、いつでも祝えるだろう?」 私は言う。 「うん、でもね、きっと、二人だけで居られる時間がたぶん少なくなるから」 妻は、ケーキの箱を少し開けて、甘い匂いを堪能しながら言う。 「ん?」 私は話を捉えられないまま返す。 「うん、あのね、私、言いたいことがある」 私は運転をしながら、妻の横顔をちらりと見る。 「言わなくちゃいけないことがあるの」 妻はケーキから視線を離し、フロントガラス越しに風景を見ていた。 「なんだ?」 私は答える。 家の近くの曲がり角に入る。 「あのね、喜んでくれるかわからないけど…」 妻がお腹をさすりながら言いかけた時だった。 車が速度の勢いにより、外輪が外側に引っ張られて、ハンドルが上手く利かなくなる。 慌てて、ブレーキを踏み込んで減速をするも間に合わず、車はガードレールに接触した。
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