一度きりの新婚旅行

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 妻の四十九日をした。 家に戻るも、玄関の明かりは点いてはいない。 これでもう会うことはできないのだろう。 私が帰ってきても、玄関に明かりが灯ることは今まで一度もなかった。 これでいつも通りなんだ。 玄関を開けるも、お出迎えはない。 お出迎えだって、妻は一度もしなかった。 夕飯の匂いがしない。 時々あったさ、レトルトパックを温めるだけで出来上がる夕飯も。 リビングの照明が点いていない。 この時間にお風呂に入りたいことだってある。 暗くなった浴室を見ながら思う。 「ただいま」 私の声が家にふわんと反響して返ってくるだけで、応えてくれる人は、もう誰も居なかった。 静まり返った暗がりのリビングに座る。 温かな夕飯もない、温かな妻の声もない夜はひんやりとしていた。 私はリビングテーブルの机に何やら置いてあることに気がついて、照明を点けた。 そこには、毛糸で編んだセーターが畳んでおいてあった。 それは、妻が作っていたセーターだった。 所々ほつれがあるものの、黄色を基調とした立派なセーターだった。 「完成したんだな…」 セーターは三人分積んである。 大きなセーターの上に中くらいのセーター、その上に小さなセーターがある。 小さなセーターは赤ちゃんが着ることのできるくらいの大きさだった。 その三着のセーターの前側にはアルファベットが一文字、描かれている。 中くらいのセーターには妻の頭文字、大きなセーターには私の頭文字が描かれている。 小さなセーターの前側には何も印字されていない。 この小さなセーターには、どのアルファベットを入れたかったのだろうか。 セーターが置かれていた一番下には、編み物の本があった。 その本は伏せんやドッグタグが沢山付けられている。 ページを開くと、間違えやすいところにマーカーがしてある。 何度も開いて実践していた折り目が深くあった。 私は茫然とした意識の中、私は玄関から外に出ていた。 一度、外に出て、家の中に入れば、再び、妻と会えるのではないかと思って。 なるべくいつものような振る舞いを装う。 いつものように家に入らないと妻が戻ってこないのではと思って。 しかし、装おうとすればする程、体の中から何かが込み上がる。 その何かを喉で必死に耐える。 玄関に入ると、隅に一つ、タオルが丁寧に畳んで置いてあった。 一滴の涙が、すうっと、私の頬を伝う。 手に持っているタオルが滲んでいく視界の中に溺れていく。 周囲がきらきらとして華やかに映し出す。 これが涙なんだと気がついた瞬間、喉で何とかせき止めていた何かが決壊した。 止まることのない、溢れ出る涙が頬を伝い、しとしとと雨のように床を濡らす。 歯を食いしばっても、声を押し殺そうとしても、止むことはなかった。 一度決壊した涙はどうすることもできなかった。 その流れる涙は温かく、私の冷えきった頬を温めた。 まるで、妻が両手で私の頬を暖めてくれているかのように。 私は、妻が渡してくれたタオルを強く抱きしめた。
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