一度きりの新婚旅行

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自宅の電話機からだ。 私は笑みも収まる間もなく、受話器を取った。 私の母からだ。 「気の収まらないところだろうけど…」 母が言う。 「あれ? 旅行に行くって言ってあったっけ?」 母は沈黙の後、重い口調で話し出した。 「あんな状態だったから、お葬式はこちらでしたけど、四十九日は、あなたが、ちゃんとしなさい」 母の言葉に思い当たる節がない。 「ん? お葬式? 誰の?」 まだ旅行気分の抜けない頬が緩む。 「…奥さんよ」 「? 誰の?」 「あんたのよ」 どうしてだろうか、言葉に重圧感がある。 「だって、妻なら目の前に居るよ?」 「…」 受話器の向こうからは何も返答がない。 「四十九日にはちゃんとした姿で来なさい」 母はそう言うと、すすり泣く声が受話器の向こうから微かに聞こえ、電話が切れた。 「え?」 私は受話器を置いて、キッチンに立つ妻を見た。 妻は水を止めて、シンクに体を向けていた。 横顔から静かに泣いているのが伺える。 妻の頬にすっと涙が流れた。 私の緩んだ頬が硬くなる。 「ごめんね。嘘ついちゃった」 妻がシンクに顔を向けて言う。 「何が?」 「ごめんね、騙しちゃって」 私が混乱しているのを自身で感じる。 妻は目の前に居るのだから、死んではいない。 「ごめんね、勝手に死んじゃって」 「何を言っているんだ? だって、目の前にこうしているじゃないか。私の母親と何か企んでいるのか?」 私は言うも妻は静かに佇んでいるだけだった。 そして、少しの沈黙の後、妻はそっと口を開いた。 「…今ね、閻魔様にお願いして待ってもらっているの」 妻が言う。 理解をしようとした。 妻の言っていることを理解できるところを探した。 しかし、目の前に妻がいる以上のことは見つからなかった。 ただ、妻が冗談を言っているようには思えなかった。 「あなたと一緒にもっと過ごして、あなたと一緒に色んな場所に行って、あなたの前で目を閉じたかった。でも出来なかった。…突然、死んじゃった」 妻は頬を上げて笑みを作り、こちらを向いた。 一所懸命、明るく振舞おうとするも、笑みを作った拍子にぽろぽろと涙が溢れ出る。 その涙を見て、頭では理解できないが、もう会えなくなることを悟った。 私は立ち上がり、妻を背からそっと、でも、強く抱擁する。 今までにない程に強く抱擁した。 「あたしを忘れないで欲しかったの」 妻の唇が震える。 私の瞳から冷えた頬を通り、温かな線が伝う。 その線は妻の髪に染み込む。 「忘れるものか」 私は言う。 「うん」 「世界一の妻を忘れるものか」 「うん」 「こんな私を愛してくれる妻を忘れるものか」 「うん、あたしはあなたを愛しています」 「私も愛している」 妻の温かな体温が私の体に染み込んでいく。 妻は、一度も私に愛しているなんて言ったことはなかった。 「どうして、今になって、愛していますなんて言うんだ」 私の声に涙が入る。 ぐっと歯を噛み締めるも、私の声は涙を沢山含ませる。 「いつか、また違う誰か、素敵な女性と一緒になるかもしれないけど…。それでも、それでもね、ほんの少しでいいから、時々、いっぱい思い出して欲しいな」 「私の新婚旅行は一度きりだ。もし天国で会えたら、私の生涯の妻は一人だって自慢する、約束だ」 「…」 私は、強く、強く、妻を抱擁した。 旅立たせないでくれと願って。 「死にたくなかったよ…死にたくなかったよ」 妻は両腕を固く緊張させて言う。 妻の肩は小刻みに震えている。 私は何も答えることが出来なかった。 私も願うならば、これからも一緒に居たい。 「忘れてなんて言えない…忘れないでとも言えない…」 妻の言葉にただ、ずっと強く抱きしめるしかなかった。 「あたしは、あなたと出会えて本当に幸せでした」
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