1.教室

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1.教室

 僕は夏が大嫌いだ。理由なんか無い。あのギラギラ照りつける太陽も、もくもくと魔神のように威圧的な入道雲も、それから麦わら帽子や水着やビーチサンダルに代表される健康的な全てのものが、とにかく気に入らない。  ちなみに僕はミツヒデ、中学三年生。もうすぐ15歳になる。高校入試を控えた受験生だ。けれども、どんな忙しい奴にだって、クソ暑い夏は平等に、勝手に、不可避に訪れる。殺人鬼が大活躍する映画や小説も、舞台となる季節は大半が夏だ。  今日、学期末テストが終わった。茹だるような暑さの中、風と砂ぼこりが入るので閉め切られた冷房のない教室での苦行が、チャイムを合図に過去のものとなった瞬間、僕は心底からの解放感を味わった。級友たちの大半は脂汗をかきかき答案用紙を埋めるのに時間いっぱいまで必死だったけれど、英語以外の教科は授業を聴くだけで80点以上とれる僕にとっては、後半の30分は苦痛以外の何物でもありえない。体感温度が摂氏40度、不快指数なんか間違いなく120%な教室にいると、もう答案の見直しなんかどうでもよくて、ただ茫然と鉛筆の先で消しゴムの穴をいじくったり、知恵熱に歪むみんなの醜い顔を眺めていたりすると、両手を後ろで組んで教室中を歩き回る教師なんか張り倒して、さっさとどこか遠くへエスケープしたくなってくる。・・・・・・ああもう、その問題に使う公式はそれじゃないって、馬鹿だなあ。あらら、ベルサル条約だって。さっすが山形出身だけあって、横文字に弱すぎ。どいつもこいつも、ほんとうんざりする。  答案用紙が回収されて、そそっかしい無記名者がひとり呼び出されて、名前を書いて席に戻っていく。みんなテストの出来不出来とか、夏休みにどこへ遊びに行くかとかで、やたら盛り上がってる。まるで二週間ガマンしたあとの射精みたいに勢いよく。窓も景気よく開け放たれて、今日から再開される部活のために着替え始める奴もいる。  まったく、うるさい連中だなあ。静かにしてくれよ。なにしろこっちには、これからはじまる大冒険が待ってるんだから。 「おい、ミツヒデ。今日の代数と世界史、どうだった?」  ほらほら、おいでなすった。アサミの声だ。僕が手まねでバッチ・グゥと知らせると、アサミは青ざめた表情を引きつらせて力なく笑った。彼女は歴史地理と、特に数学が苦手で、今回もやっぱしダメだったらしい。いまさら慰めても仕方ないので。僕はいつも通りに、思いっきりヤな態度をとってやった。 「へっ、おまえ、バッカじゃないの?」  アサミもいつも通りに反応した。片手で僕の手首をつかみ、もう一方の手の爪をたてて、肘から手の甲までを思いっきり引っかきやがったんだ。この愛情ちょっぴり、茶目っ気たっぷりな悪戯につきあう間抜けな僕が、せいぜい大仰なリアクションを返してやると、アサミはキャハハと笑って、あとで・・・フッ…と艶めかしい吐息を漏らした。こいつは、ごく最近になって見られるようになった仕草だ。はっきしいってまだまだ未熟でロリータだけど、そこそこにおいしくもある。  アサミが僕の目の前の席に座った。椅子の背もたれを抱きかかえる姿勢で座ると、制服のプリーツ・スカートが大胆に開いて妖しい陰りがむき出しになるけど、彼女はぜんぜん気にしない。小学生のころから、まるで男の子のように自分を扱ってきてる。他の女子たちが、例えば体育の授業の着替えのときなんかに男子の目を気にしていろんな悪あがきをしはじめても、アサミだけはまったくお構いなしにノーブラのまま上着を脱いで、別に慌てるでもなく体操着を腕に通してた。  で、そんなショッキングな事実をいち早く目撃したのが、何を隠そうこの僕だ(ジロジロ見てたんじゃなく、偶然に)。そして、そんな無頓着を僕の前だけに限定させたのは、忘れもしない小5の秋だった。それ以来、僕とアサミは人生の神秘を共同で探求することを、それぞれ尊敬する赤い彗星のシャアと一条ゆかり先生にかけて誓い合って、今日に至っている。  アサミが、僕の机の上の問題用紙のそこかしこを指で指し示した。そんでもって、あっけらかんとしていった。 「ね、ココと、ココとぉ、ココとココがわかんなかった。あと、こっちも」 「ふうん。で、オレにどうしろと?」 「だから、教えて。あんたのお優しいアムールがおんなじ高校にいけなかったら、あんたきっと泣いちゃうよ」  その脅迫じみた要求に屈した僕は、みんながヒューヒュー冷やかしてから帰っていったあとの一時間を費やして、連立方程式からヴェルサイユ体制下のドイツまでを綿密に説明してやった。アサミは表面上、理解したような顔をしてたけど、ほんとは何にも頭に入っちゃいないんだってことが僕にはわかってた。けれど、それでも努力を惜しまないのが共同探求者の義務ってものなのさ。こいつはいくら肝に銘じてもなかなか出来るもんじゃない。僕は常々、自分で自分に、我ながらたいした慈善家だな、と感心している。  いいかげん「もうテストの事は忘れちまおうぜ」と僕が提案したころには、時計の針は午後一時を大きく回っていた。コチコチと微かな音を立てる時計の他には、遠くから聞こえてくる運動部員の掛け声くらいしか耳に入らない。  こういうとき、普通のカップルは甘酸っぱいムードに浸って〇〇〇したりするんだろうけど、僕らにはちょっとした不文律があるんだ。〇〇〇と、それに付随する行為は、あくまで計画的に、人間らしくヤルってのがね。勢いとか済し崩しはダメ。中二の冬の爆発しそうなあの日に、アサミが宣言した通りの言葉だ。  僕らは席を立ち、教室を、ついで学校をあとにした。途中、軽く食べようってことになって、例のあまりにも有名なニワトリ虐殺犯の店に入った。骨なしチキンサンドにかぶりつきながら、アサミが言った。 「ねえ、夏休みの約束、覚えてる?」 「忘れようとしてたけど、たったいま惨めに失敗したよ」 「い~い? あんたが泳げないのは知ってるし、日焼けできないベイビーなお肌だってこともよーくわかってる。でも、中学最後の夏くらいは、絶対にあたしに付き合ってもらうわよ。だいたいあたしが誰かと海に行ったら、あんたシットに狂って何しでかすかわかんないんだから」  ……この自信の押し売りが、彼女の屈折した愛情表現だといいんだけど。僕は鼻で、ふふん、と笑って軽くいなした。ついでにいってやった。 「陸上部の練習にはもう出ないんだな。他に得意なことが無い癖に、ずいぶんあっさりしてるじゃんか」 「いちいち、むかつくわね。ええそうよ。あんたと違って、あたしは勉強もできないし、音感もゼロだし、野蛮でガサツで女らしくもなくって、服のセンスも時々はずしちゃうサイテー女だわ。どう、これで満足?」  自虐の言葉を並べながら、目だけはしっかり悪戯っぽく笑ってるところがアサミらしくていい。とてもいい。すごくいい。もうたまんない……ごめん、ちっとばかし脱線。  それからは、僕と、僕が食べ残したサーモンサンドをぺろりと平らげたアサミとの、延々としたイチャつきが続いた。店員の馬面女が掃除にかこつけて露骨にプレッシャーかけてくるくらい、ほんと長々と。ちょっとのつもりが何時間にもなっちまう「人生の神秘の探求」は、周囲の反感を買わずに行うには少し熱すぎるのがネックだ。  ほとんど追い出されるように店を出た帰り道、アサミは僕にすくいあげるような視線を送ってきた。いわゆる欧米古典映画風のベッドルーム・アイってやつだ。僕が、淫乱でどうしようもなくオトコにベタ惚れな女に対するみたいに、優越感たっぷりに見下してやると、アサミは僕の頬を軽くハタいた。それから、急に涙ぐんで叫んだ。 「バカにしないで! 今度こそふたりで冒険しようねって、思っただけなのに!」 むかしむかしのギャグ漫画みたく、ダッ、と駆け去ってゆくアサミの後ろ姿には、どことなく罠に向かってヒタ走る野ウサギの哀れさがにじんで見えた。
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