2.電車

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2.電車

 カタンコトン……コトンガタン……ゴツッ!  床に落としたスマホを拾おうと屈んだ僕に、荷台から落ちてきたカバンが直撃した音だ。…くう、つつっ。ちくしょう、誰だっ、海に行くのにわざわざ年代物の一眼レフなんか持ってきたやつは……僕だ。  コブができてそうな後頭部をさすりながら振り返ると、そこにはパンク寸前の笑い袋が脚を投げ出すようにして座っていた。爆笑とまではいかないけど、白い歯をチラつかせて、大きな猫目石みたいな目をカモメのかたちに細めている。  その笑い袋が、僕の頭をおざなりに撫でて、いった。 「なんか、これからのあんたの運命を暗示してるみたいで怖くない?」 「溺れて土左衛門になるとか、岩場で滑って頭を打っちまうとかか?」 「(首をフリフリ)んーん。ぼうやに帽子をつけるとき、何かのちょっとした手違いで、あっというまにピュルピュルしちゃうの。いまからいいわけ、考えとくのね」 「……おまえにゃ、あちらにいらっしゃる平和な家族連れのみなさまが目に入んねぇのかよ?」  この日のアサミは、普段の垢抜けないショートボブをソフトスパイキーにセットして、まるで別人みたいだ。クルミ色の肌が透けてみえる黒い水玉模様のシースルーシャツを着て、股下をぶった切った男物のGパンをはいている。靴はラベンダー色のラメ入りサンダル。Ray-Banのサングラスを額にかけて、口元に精一杯の媚態を刻んでいる。  黒を基調にしたスタイルは僕の影響だけど、ここまで立派に着こなすとは正直、予想してなかった。で、そのことをほめてやろうとしたけど、グラサンとGパンの元の所有者のことを思い出してやめといた。いいかげん、お互いの家へ遊びに行くたんびに、「お、このチェックもらい!」とか「あ、コレいい~。コレちょうだ~い♪」なんてふうにモノを奪い合うのは、そろそろどうかと思う。だいたいアサミの趣味がオトコっぽくて、おまけに体格が近すぎてるのがいけない。  あ、そうそう。ちなみに、虚弱体質だった僕がアサミを身長で抜き返したのは、つい半年前のことで、それまでの約三年間というもの、僕はアサミにチビすけ呼ばわりされ通しだった。  肉付きはアサミの方が断然いい。デブではなく、健康的ってこと。女の子はあるていど肉感的な方が僕は好みだし、男はたいていそうだ。ダイエット・ブームだかなんだかしらないけど、骨格とぜんぜん釣り合わない極度なやせは肥満以上に見苦しい。  針金みたく骨張ったモデル体型は女の子には人気あるけど、男はイザって時にベッドでは敬遠する。DTだけど、あえて断言する。もちろん、その辺りの機微がわかんないほどアサミはバカじゃなくて、胸なんか小学生の時からおいしそーに盛り上がってる。今夜がメチャクチャ楽しみだ。 「ところでさ、向こうに着いたら、何からはじめる? あたしジェット・スキーって、まだ乗ったことないんだ~」 「オレならまず部屋で寝るな。一眠りして、陽が傾いたらビーチでジンジャーエールでも飲みながら写生文を書く。そうしてウキウキしながら夜を待つんだ」  予想されたことだけど、僕らの会話はぜんぜん噛み合わない。僕が海と空と雲の美しいイマージュを頭のキャンパスに描いている間に、アサミのオツムは群青色の波間で可愛らしい快哉を叫びまくるための計画でいっぱいになっている。天上の貴公子と地上の野生児……なんていったら、たぶん怒るだろうな、やっぱり。  アサミが不意に僕のシャツの袖をぐいぐい引っ張って注意を引いた。 「ね、いまあたしのことバカにしたでしょ」 「オレが? なんで?」 「とぼけないでよ。ちゃ~んと目でわかるんだから」  そういって取り出したコンパクトを開いて僕の鼻先に突きつけた。覗き込んでみると、なるほど確かに眉が吊り上がって、瞳が軽侮の彩りを帯びている。僕はアサミの地上的な歓びを冷たく否定していた。 「……ごめん。でもオレが、これから意に沿わない場所へ連れ去られようとしてるってことは認めてくれるだろ」  今にして思えば、これはかなり馬鹿げた言い方だった。野性的なアサミの感化を受けても、僕の物事をフィルターにかけて考える癖、あの言葉の迷走じみた文学臭は消えそうにない。  アサミは即答した。 「わかってる。そのかわり、夜には豪華な景品が出るのよ。がんばってつきあって」  アサミは何も考えずに、ただ人生共同探求者を自動的・機械的に労わったに過ぎなかった。わざとらしい下世話な言葉づかいも、ふたりの関係をシニカルに誤魔化すために使われていて、ふたりに革命的な何かが起こるまでは止みそうにない。  日に焼けた子供たちが、親の制止を振り切って目の前を駆け抜けていった。テレビアニメのヒーローとヒロインを自称しあう無邪気な声が、足音とともに遠ざかっていく。アサミが聞いた。 「前から思ってたんだけどさ、あんたって、ああいう子供らしい子供時代なんか無かったんじゃない? お母さんの隣で慎ましく膝を閉じて座って、鹿爪顔でエジソンの伝記を読んだりして。そうして時々、不思議そうに聞くの。『お母さま、お父さまは毎日、エジソンに負けないくらい努力したのに、どうしてなんにも発明できなかったの?』って……あ、ごめんなさい…ほんとにごめんね」  アサミは急に謝った。きっと僕の不遇だった親父をあげつらったことを省みてのことだろう。  親父は十年前、大手電機メーカーの商品開発部をクビになったその日の夕方に、玉川上水に浮かんだ。あとには手つかずの定額貯金と、くたびれたスーツ数着、それに半分以上読み残した太宰治の全集が、母と僕に遺されていた。  かわいそうな親父、文学が唯一の心の贅沢だったなんて笑っちゃうよ。全冊読み通すだけのゆとりさえあれば、自殺なんかしなかっただろうに。  僕はアサミと知り合うまで、自殺者の息子として周囲の弾劾を受け続けていた。机に落書きされ、靴に画びょうを入れられ、鞄に絵の具を塗りたくられた。体育の授業では誰とも組んでもらえずに、それが当たり前だと諦めてた。  ところが、五年生へ進級する際に同じクラスになったばかりの女の子が、僕を取り囲むいじめっ子たちを激しく非難した。 「あんたたち恥ずかしくないの? いま見てるあんたたちの姿って、刑事ドラマの凶悪犯みたいにすっごく醜いわ」  あのひと言で連中はとりあえず退散したけど、アサミはイジメられっ子のかわいそうな僕を月並みに慰めたり励ましたりはしなかった。お礼を言おうとする僕をどつき、連中を威圧した以上の嫌悪と軽蔑の響きを込めて、僕を罵った。 「誤解しないで。別にあんたのためじゃないから。それに、あたしが一番、キライなのは、イジメられてウジウジしてるあんたなのよ」  あの日のアサミの言葉で僕が覚醒した……といえばウソになる。それからしばらく後まで、僕は相変わらずの弱虫毛虫ぶりを発揮して、アサミの露骨な蔑みの視線を受け続けていた。  ただ、アサミという女子の存在が、少なくとも変化のきっかけを与えてくれたのは事実だ。僕は誰もいない放課後にアサミの防災頭巾に顔を擦りつけたりすることで、自分が見栄や意地を張りたがる正真正銘の男子であることを、そして何を求めているかを知った。  そうした知識はやがて僕をトム・ソーヤにし、気に入らないガキ大将の顔に引っかき傷を作ったり、サッカー少年と競り合ってボールごと相手のお尻を蹴り上げさせた。変身した僕は瞬くうちにヒーローの一人に数えられるようになり、もともと勉強ができるのも手伝って、僕の周囲にはたちまち男女のお追従者たちで湧きかえった。  ある日、陽気な談笑の輪の中で、「おい!」という声に振り返ってみると、そこにはキレイな歯並びを誇示する姉貴みたいなアサミがいた。もう四年も前の出来事だ。  視界が急激に明度を増し、電車の走る音が突然、耳の中にあふれた。視線を転じると、アサミの気遣わし気な表情に出くわす。僕はあくびをかみ殺した。時計を見ると、五分ほど記憶にない時間が刻まれていた。 「オレ、寝てた?」 「ううん。ていうか、どっかに飛んでたって感じだった。お父さんのこと考えてたの?」 「いいや。もう少し楽しい事さ」  さっきの家族連れがボチボチ立ち上がって、網台の荷物をせっせと下ろし始めるのが目についた。アサミが待ちに待った夏の楽園へのご到着だ。これから始まる苦行の事を思うと、いまから気が滅入ってくる。 「いいか、こないだ決めた通り、オレは絶対に泳がないし、一時間以上、直射日光を浴び続けたりもしない。無理やり引っ張り出そうったって無駄だからな。……ところで、それオレんだろ、返せよ」  僕はアサミのミルク色がかった茶髪からサングラスを抜き取った。アサミはしおらしく……というより珍しく、少しも抵抗しなかった。
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