3.海

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3.海

「おーいミツヒデ、ほら、はやくはやくぅ。ね、こっちだってばぁ、ほらぁ」  ヒマワリ色、無地の大胆なハイレグ水着を着たアサミが、波打ち際で大きく手を振っている。  澄み渡る青い空の下、ビーチパラソルが乱立する白い砂浜を駆け抜けて、穏やかな波を蹴立てるアサミの姿は、ひいき目に見ても見なくてもメチャかわいい。これ以上、うまい言葉が見つからないけど、とにかく明るくて快活で、ちょっとずつ放射し始めた色気が匂い立つようでありながら、素直な子供みたいに全然、後ろ暗さを感じさせない。健康飲料のイメージ・ガールかなんかにピッタリだ。  いっぽう僕はといえば、こちらはどっから見たってメチャかわいくない。男らしくも、たくましくもない。普段なら薄手の長袖で隠せたTシャツ焼けが露わだし、筋肉の乏しい胸板はポイップクリームみたく生っ白い。数日前に買った水着もサイズより柄を優先させたためにブカブカで、なんだか最軽量のボクサーがキングサイズのトランクスをはいているように見えて恥ずかしい。夜の期待が無きゃ、とっとと帰っちまいたいところだ。  僕はあとから漫然とした歩調でついていった。すれ違った30近い歳の女二人組からクスクス笑う声が聞こえる。きっと彼女たちは、オトコを判断する基準の第一に筋肉をおいているのだろう。汚らわしい。だいたいゴツゴツと醜怪な身体を作るような奴は、ホモのタチ役か自意識過剰の変態と相場が決まってるんだ。それに、そんな連中に抱かれたがる女だって、たいがいは……いったい僕は何をいってるんだろうか?  向こうからアサミが駆け寄ってくる。僕が遅いのを待ちかねたみたいだ。水着からはみ出しそうな二つの胸の隆起が、アサミが脚を踏み出すたんびに上下に大きく揺れて、僕を歩きにくくした。すなわち前屈みである。  アサミが10メートル手前あたりで急に立ち止まる。何かに驚いて、何か言おうとして……イテッ、テッ、なんだこいつ、目隠しして変な棒でオレを殴るな。こらっ。  目隠しした小さな暴行犯は、家族で仲良くスイカ割りに興じていた小学生ぽいクソ坊主だった。コンチクショウめ。お前がガキじゃ、ぶん殴れないじゃないか。おいオッサン、オバサン、お前らに謝られてもしょうがねんだよ。いまどき浜辺でスイカ割りなんかやるんじゃねえよ、バカヤロ。  でもアサミを前にして、僕が実際に口に出したのは、 「いえ、大丈夫です。ほんとに平気です。ええ、もうわかりましたから。はい」  という実に協調性たっぷりの挨拶だった。善良なるミツヒデ。法王から直々に聖人に叙せられる日も、そう遠くはないだろう。  アサミが腰に手を当てて、いくぶんウンザリしたような口をききやがった。 「バカねえ。そんなとこでウロウロしてるからよ。ほんと、いつまでたってもトロいんだから」  いちいちその通りなので、ひとことも言い返せないのが悔しい。僕は拗ねた幼稚園児がやるみたいに唇をとんがらせて足元の砂を足の指でいじくった。  そうしてる間に、第二の災難が二匹、ホモ・サピエンスの皮を被ってやってきた。真っ黒に日焼けした災難どもは、サーフボード片手にアサミに声をかけた。 「ねえそこのカノジョォ、ひとり?」  二匹目も粘着性のニホン語を吐いた。 「よかったらさぁ、オレたちと波乗りしない?」  僕は眼前の言語道断な光景が信じられずに、ただ呆然としていた。アサミは災難二匹にさり気なく挟まれて、「エー、ヤダァー、どおしよぉ」とか何とかいいながら、ぜんぜん嫌そうに見えない。それどころか頬を上気させて、このウンコ色の動物どもに従ってもいいような素振りまで。くそう。  僕は逆上した。何が何だか自分でもよく覚えていない数瞬のうちに、僕は動物のでかいほうに飛び掛かって逆に張り倒され、二匹の太い腕で砂の上に組み伏せられていた。アサミが叫び、周囲に人だかりができる。僕は解放された。  動物どもは、倫理観のカケラもないケダモノの分際で、人間ぽくバツが悪そうな態度をとった。アサミが震える声で「あっちへ行って!」と叫んで向こうを指し示すと、動物どもはブーたれながらこの場を立ち去った。  僕が連中の立場でもそうしただろう。いくら図太く無神経でも、この腹立たしいまでの人混みの、野次馬どもの厚かましい視線には耐えられない。  やがて人だかりも一人減り二人減って、気が付くと誰もこっちを見ちゃいなかった。アサミが僕を引き起こしてくれた。帰りしなに、アサミは誰に言うでもなく言った。誰かに向けて言ったのだとすれば、それは僕以外にはありえない、といった感じで。 「もう、恥ずかしいったら……」
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