第一問 南座大天井の電球は、ある物を取り交換します。それは何ですか

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第一問 南座大天井の電球は、ある物を取り交換します。それは何ですか

     ( 1 )  JR京都駅ビル(設計・原広司)正面改札口を出た、出町柳美は、額の生え際から落ちようとする汗をぐっと額にくっきりとしわを作って食い止めてから一つ大きく伸びをした。  左手には、大階段(171段)が見える。  毎年、この階段を駆け上る競争が行われて、もはや京都の風物詩ともなっていた。  今日はそこには寄らない。  正面前方にそびえる京都タワーを大きく目を開き、きっと睨んだ。  夏の日差しを受けて、青空と京都タワーの姿が、向かいの京都駅ビルのガラス窓にくっきりとその存在を投影していた。  京都タワーの設計は、山田守で、日本武道館も設計している。  胴体は、鉄骨ではなくて、ミルキーホワイト色のなだらかな曲線を描いていた。  この色は、同じ昭和39年に開業した東海道新幹線ゼロ系と同じである。  例年よりも梅雨明けが早くて、汗かきの柳美の背中には、幾つもの汗の集団が、生まれていた。  ぐっと欠伸を一つ口の中に閉じ込めた。  その感情の吐露は、他の観光客のこころと正反対だった。 「ああ、面倒くさい」一つつぶやく。  これから柳美は、京都タワーに向かうのだが、それは決して観光なんかではない。仕事だ。  正確には、仕事に取り掛かるための材料がある場所なのだ。  エレベーターのドアが開くと、タワワちゃんの笑顔が飛び込んで来た。  タワワちゃんと云っても、京都タワーのマスコットキャラクターではない。  通称タワワちゃん。本名田和和久代。  京都タワーの案内係。柳美とは旧知の仲。 「タワワちゃん、いつも笑顔で大変よねえ」 「全然。私、これ素顔なんです」  柳美と違って、素顔でもどこか笑顔が浮かぶ女性がいる。 「それいいよねえ。持てるよ」 「キャー嬉しい。またお仕事ですか。今回はどんな依頼人なんですか」 「それ知るために来たのよ。どこ」 「あちらです」  和久代が指さした方角を見る。  展望台ガラス面に沿って、望遠鏡が並んでいるが、一つだけ「故障中」の赤字で大きく書かれた張り紙がしてあった。  柳美は、その張り紙を剥がして、素早くスマホのアプリを起動させてレンズに近づけた。イヤホンをする。  レンズの前には景色の代わりに、履歴書が提示された。 「お早う柳美さん。今日のお目覚めはどうですか」 「はいはい。早く要件を云えよ、じじい!」一人つぶやく。 「今回の依頼者は、東京の高校生三人である。三人の名前は、 宇多(うた)野(の)詩(し)織(おり)、常盤鐘也(ときわかねなり)、仁和寺男(にんなじおん)である・・」  メッセージは続く。  柳美は途中でイヤホンを外し、終わるのを待つ。  スマホに音声データ、写真、動画も取り込んでいた。  柳美の仕事は、京都人検定試験を請け負う検定講師、並びに京都ガイドである。  京都検定ではなく、京都人検定。  これは、京都検定から派生した、ご当地検定の決定版でもあった。  出題範囲は、膨大で寺社仏閣の歴史はもちろん、祭、慣習、建築、庭園、地理、文化財、京ことば、京野菜、歌舞伎、狂言、落語、など広く浅く出る。  出来たのは、五年前。  しかし、最初はあまり注目されなかった。  潮目が変わったのは、三年前。  京都の有名私立大学が受験科目に採用してからだ。  採用校の一つ、同志社大学広報部は、 「大学4年間、京都に住み、暮らす事になる学生にとって、京都の街は、単なる学問の場ではなくて、京都で生活して日々の暮らしを通じての息遣いを学んで欲しい。  その流れの中での(京都人検定試験・1級)は、まさにうってつけの現代に生きる学生のテキストでもある」とコメントした。  これに呼応するかのように、財界、寺社が続く。  学問の神様で名高い北野天満宮は、 「京都人検定試験合格」単独のお守りを売り出すと大ヒットを記録したので、他の寺社も続く。  京都人検定1級試験合格なら、国語100点満点とするものから、同時に大学合格する所まで出て来た。  再来年、京都大学での採用も決まった。  これで一気に人気に火が付いた。  京都の予備校には「京都人検定試験コース」まで出来た。  また大手旅行代理店は、大学見学、京都見物、京都人検定講座をセットにしたものを売り出して、人気となっていた。  1級は2級合格しないといけない。  受験資格は16歳以上。つまり高校1年から挑戦出来る。  300点満点で90パーセント、つまり270点以上で合格。  1級の合格率は毎年1パーセント未満。  超難問、奇問である。  全て記述式100問と5つの論文で構成される。  毎年、試験問題が都新聞に掲載される。 「あれは、京都に住まんとわからんわなあ」  と京都人はつぶやく。  そのため、高校一年から京都に下宿する学生まで出現する。  これは極端で、大抵夏休みを利用しての集中講座、旅行である。  今回も夏休みを利用してのものだった。  柳美は、フリーの京都人検定合格請負人。  数年前まで旅行代理店の添乗員であった。  ある事件で辞めて、今は「オーナー」から連絡ある受験生を指導していた。  録音が終わるとエレベーターへ向かう。 「今回はどうですか」 「さあ、それは私もわからない」 「ですよね。でも柳美さん凄いですよね」 「何が」柳美は和久代を凝視した。  柔和な顔、笑み、しかし目は笑っていない。 「五年連続京都人検定試験1級合格!しかも満点五年連続!」  これは前人未到の大記録である。  大概、1級合格すれば、もう受験しない。  しかし、柳美は受験生に交じって毎年受験していた。  ここが大学受験講師と違うところだ。 「柳美さん、今年もまた受けるんですか」 「さあどうしようかなあ」  京都人検定試験は毎年十二月に行われる。  エレベーターのドアが開き、高校生らしき三人が出て来た。 「せまっ!」 「何じゃこりゃあ!」 「狭すぎでしょう!」 「やばいほど狭い!」  高校生は、口々に展望台フロアの狭さを叫んでいた。  確かに東京スカイツリー、あべのハルカスに比べると狭い。  京都タワーの完成は、昭和39年。東京オリンピック開催の年だ。  東京タワーよりも後だ。  しかし、展望台は後で付け足したようで、狭い。  それに今となっては、高さ100メートル少しは別に高くもない。  東京スカイツリー、あべのハルカスの300メートルと比べると明らかに、そのスケールは小さい。  しかし、それでもひっきりなしに観光客は来る。  これは京都駅前と云う抜群のロケーションもさることながら、京都市内中心部には、東京、大阪のように高層ビルも高速道路も走っていない。だから、この高さで充分なのだ。  京都御所も清水寺も平安神宮の赤い鳥居も見える。  元々、京都市内では、東寺よりも高い建物は駄目と云う慣習があったが、京都駅ビル、京都タワー、京都ホテルの三つの例外がある。 「最近は、日本人観光客が減ってるの」和久代が寄って耳打ちした。 「高校生たちは、増えているんでしょう」 「春と秋の修学旅行が減って、夏の時期の高校生が増えてるんよ」  京都の夏は、年々暑くなっている。  インバウンド、訪日観光客が増加しているが、やはり春と秋に比べると少し減少する。  その中での京都人検定試験がらみの高校生増加は助かるのだ。  しばらく、高校生たちのざわめきを観察してその場を立ち去った。  京都タワービルを出たとこで、一番会いたくない男と出会った。 「よお、柳美ちゃん、おひさー!元気~!」  その男、名前は西院王雅(さいおうが)  柳美が前に勤めていた大手旅行代理店「平安旅」の上司。  あだ名は、あの有名な故事、「塞翁が馬」から「馬」と呼んでいた。  馬面、それに馬鹿の一文字からついていた。  部下の女子からは敬遠されていたが、上役へのゴマすりが上手く、今では支店長にまで上り詰めていた。  顔を見た途端、すぐに目の前の地下階段を走って逃げたかった。 「柳美ちゃん、京都人検定五年連続満点合格おめでとう」 「有難うございます」出来るだけ、無表情に答えた。 「噂で聞いてるよ。高校生の支持もよくて年々依頼が増えてるって」 「それほどでも」 「もう、うちの業界、荒らさないでよ」  王雅は大げさに顔をしかめる。  ちらっと見た。  前よりも、さらに顔が伸びて益々、馬面になった。 「うま・・馬鹿」小声で柳美はつぶやく。 「お茶でもしようか」  柳美の返事を待たず、タワービルの中に入ろうとした。 「いえ、用事がありますので」  負けじと、柳美は西院の返事を待たずに地下階段を降り始めた。 「残念。じゃあ街角京都人検定試験お互い頑張ろうねえ」  西院の声が柳美の背中に突き刺さる。  いやな奴の声が大きければ大きいほど、本当に背中に突き刺さるほどのダメージが広がる。   街角京都人検定試験とは、京都人検定協会主催で京都で夏休みに行われる、ミニ試験である。  問題用紙を片手に京都の街を練り歩いて解答を見つける、云わば、観光と試験対策をミックスにしたもので、何回か行われる。  西院の会社も本腰で、東京の高校生をターゲットにかき集めていた。  西院にしてみれば、柳美が活躍すればするほど、嫉妬とライバル心が燃え上がるわけだ。  生粋の京都人の西院は、そんな事は決して口にも顔にも出さない。  西院の馬面を見たお陰で、柳美のストレス係数は一気に上がった。  帰宅すると塩を玄関にまいて、自分自身も頭からかぶって清めた。 「うまの馬鹿野郎!」  浴室でシャワー浴びながら何度もそう叫んでいた。     ( 2 )  四条大橋東詰、北側に出雲の阿国像がある。  言わずと知れた、歌舞伎の祖と云われている。  その足元をぎゅっと握りしめて、辺りを不安そうに眺める女の子と笑う二人の男子高校生がいた。  南座向かいのレストラン菊水から出た柳美は、思わずにやりと笑みがこぼれる。  待ち合わせの目印に、 (出雲の阿国像の足の指をしっかりと握っている事)  と指令を出したのは、柳美だった。  信号が青に変わり、横断歩道を渡る。 「お待たせ。出町柳美です」  三人の高校生が同時に柳美に視線を注ぐ。 「宇多野詩織さんね」  詩織は、うなづき、出雲の阿国像の足を握っていた手を離した。 「常盤鐘也くん」 「ウイッスー!」両手でVサイン作って横歩きした。 「仁和てらおくん」 「先生、てらおと書いて、じおんと云います」 「へえージオンくんかあ。いい名前!恰好いい」 「こいつ、名前負けしてますから」  すかさず、鐘也が突っ込んだ。 「してねえよ」すぐに寺男が云い返す。 「えーと君たち、京都タワーで、狭いとか散々悪口云ってたよね。あれ、やめた方がいいよ」 「やばっ!先生、俺たちの事つけてたの」 「きっしょい!」 「ストーカーですか」  三人は口々に悪態つくが、それは本心ではない。  その証拠に全員笑っていた。 「京都は、東京と違って狭い街です。いつどこで誰かが見てるかも。怖いよー」  少し芝居気たっぷりに柳美は云った。  三人はひとしきり笑った。 「先生、これからどこへ行くんですか」寺男が聞く。 「京都暑いっす!鴨川で泳ぎたいっす!」  鐘也は、川面から光る夏の日差しを見つめてながらつぶやく。 「私は、床(とこ)行きたい」 「詩織、とこじゃなくて、ゆかだよ」寺男が訂正した。 「こんな基本問題間違えるようじゃねえ・・・」 「何よ偉そうに」と云いながらメモしている。 「はいはい、お喋りはそこまで。これから行くとこはあそこよ」  柳美はあごをしゃくって、顔をそむけた。 「南座ですか」  一同は、四条通りを挟んでそびえる、劇場に目をやる。  劇場前には、左右に大きな大提灯があった。  赤地に青い文字で南座と書かれている。  文字の淵は白い色でなぞっていた。 「はいそうです。ここで問題。南座は昭和四年に改築されましたが、平成に入って・・・」 「平成3年と30年に二回改築」詩織が答えを云う。  柳美はにっと笑い、ひと呼吸置いた。 「ですが、南座は、第一回めの・・・」 「登録有形文化財!」今度は寺男が叫ぶ。 「ですが、劇場正面にある二つの大提灯は、毎年・・・」 「まねき上げの日に交換!」鐘也が絶叫する。 「ですが、その大提灯を交換するのは、南座のどの部署ですか」 「知らねえよ」まず鐘也が即座に突っ込む 「そこなの問題は!」寺男が呆れた。  寺男がスマホで検索しようとした。 「はいストップ!スマホでの検索はこれから一切禁止します」 「どうしてですか」 「あなた達は、どうして今京都にいるの」 「それは、もちろん京都人検定試験のためです」 「だから?」  柳美は詩織の顔を覗き込んだ。 「だから、そのためにあちこち、京都の街を見学しようと・・・」  段々言葉を発する声が小さくなった。 「もっと自信持って!詩織さん、正解!」 「あっはい。有難うございます」 「皆、いいかな!答えはスマホの中にはない!この京都の街の中にあるのよ!」  腰に手をやり、仁王立ちの柳美の口元から叫び声がとどろく。  その大声に、三人は口をぽかんと開けて見ていた。     ( 3 )  南座照明部課長、笠置明夫の案内でまず一階客席から大天井の照明器具を仰ぎ見た。  三人はスマホであちこちの写真を撮った。 「折り上げ天井、格天井がある南座です」笠置は説明した。 「寺院建築によくある手法です」柳美が補足説明した。  客席、左右の桟敷席、舞台などを寺男、鐘也はスマホで撮影した。 「先生、あの舞台の上にある屋根は何ですか」  寺男が指さして聞いた。  舞台上部に、なだらかな、曲線を描く屋根が飛び出していた。 「あれは、破風といいます」 「はふう?」詩織が聞く。 「はい。破れる風と書いて、破風。能舞台から来てるようですよ」  笑いながら笠置は答えた。 「もうなくなったけど、道頓堀中座も破風のある劇場でした」  柳美は、笠置の説明に言葉を加えた。  柳美と笠置は旧知の仲であった。  柳美が、前職、旅行代理店勤務時代、パックツアーで 「南座バックステージツアー」で定期的に、南座の照明、大道具関係の裏方部屋巡りした時からの付き合いである。  大天井の真ん中には、大きなお椀を吊ったようなもので覆われた照明器具があった。  さらに四角のエリアにも一つずつ照明器具があった。  しばらく、一同は天井を見上げていた。  詩織は、顔を天井に上げたまま、メモを取っていた。  寺男は、スマホで動画撮影していた。 「柳美先生、首が痛いっす」  鐘也がスマホで写真撮ったあと、大げさに顔をしかめて、首を右手で撫で上げた。 「はい、わかりました。あの大天井の明かりの一部、どこで交換するのか、行きますよ。ではお願いします」  柳美が目で、笠置に合図した。  次に笠置が案内したのは、屋上だった。  エレベーターで四階出たところに、お社があった。 「折角なので、まずお社を説明します」 「皆、写真は後で!人の話を聞く」 「柳美先生、僕ら一応全員、録音してますから」  三人同時にポケットからICレコーダーを取り出した。 (少しぐらい、聞き漏らしても大丈夫です)  と云いたい顔が生まれた。 「詩織さんは偉い。でもちゃんとメモしてる」 「その方が覚えるからです」 「鐘也くんも寺男くんも見習わないと」 「勉強法は、人それぞれですから」 「ああ云えば、こう云う。こいつらあ・・・」 「まあまあ。でこのお社は、南座の舞台に出る役者さんが、毎日お参りしたりします。また毎月8日、月参りで八坂神社さんから宮司が来て拝みます」 「八坂神社、月参り!8日!試験に出る!」  柳美は叫ぶ。  お社に一同はお参りした。  その向こうに、鴨川、四条大橋、さらに東華菜館、河原町繁華街が広がる。 「じゃあそろそろ、正解のエリアへ」 「つまり、あの大天井の照明器具を取り替える場所です」  柳美が再び補足説明した。  笠置が連れて行ったのは、とある楽屋だった。 「笠置さん、ここ楽屋ですけど」  不思議そうに寺男が聞いた。 「そうです。楽屋です」 「ここで、球替え?」  不思議そうに詩織はつぶやく。 「まあ、皆、ちょっと下がって。ではお願いします」 「はい」  笠置は、手慣れた手つきで畳を一枚剥ぐ。  すると丸い鉄板が現れた。  その蓋を取ると、暗闇の空間が現れた。 「ここから人が入って、球を交換します!」 「やばい!」  三人はスマホで動画、静止画取り出す。 「云っとくけど、これツイッター、インスタ、ブログ、Facebookなどにアップは禁止」 「わかってますよ」寺男がにやける。 「仲間同士へラインで送るのも駄目よ」 「はいはい」鐘也も浅く返事する。  畳を元に戻すと、今度は楽屋のある廊下に出た。 「もう一か所球替えする所あります。それがここです」  廊下の中央にマンホールのような蓋があった。  周囲をガムテープで塞いでいた。  笠置はそのガムテープを剥ぐ。さらに四隅に止めてあるネジをプラスドライバーで外した。  蓋を取ると、ここにも人一人が通れる空間が現出した。 「このように、潜って行きます」  笠置の姿が消えた。  一同は中腰になり、その姿を追う。 「このように、ほふく前進で進みます」 「ほふくぜんしん?何ですか?」 「はい、それ後で検索」  詩織はスマホで音声検索した。  画面に答えが出てうなづく。  その一連の行動を見て、つくづく便利になったと柳美は思った。  スマホの出現で勉強法確かに変わったのだ。 「さっきの問題の答えは、楽屋もしくは楽屋の廊下。そして畳、もしくは鉄板の蓋を取るでした」  一同はうなづく。 「先生」寺男が手を挙げた。 「何ですか、てらおくん」 「ジオンです。さっき、南座の大提灯の取り換えする部署を問う問題出されたんですけど、正解教えて下さい」 「まず君たちの答えを知りたいわ」 「管理部ですか」詩織がつぶやく。 「まっとうな答え。でも問題にするぐらいだから、そんなベタな正解はないです」 「答えにもベタとか、そうでないとかあるんですか」 「あります。まず3級、2級まではベタな質問、答えです」 「例えば京都の三大祭りで一番歴史が浅いのは」 「時代祭」三人口を揃えて答えた。 「ですが、その時代祭にゆかりのある神社・・・」 「平安神宮」 「ですが、神苑の庭の作庭者は」 「小川治兵衛(七代目・植治)」 「ですが、そこに祀られている神様は」 「桓武天皇から光明天皇」 「正解。それがベタな質問。一級ではさらに突っ込んで来るの」 「例えば?」 「その平安神宮近くにある美術館、博物館を五つ書きなさいとかね」 「国立、市立・・・」 「はい、時間節約で解答云います。京都国立近代美術館、京都市立美術館、並河靖之七宝記念館、細見美術館、泉屋博古館で五つね」  柳美は三人の考える力、時間を瞬時に殺した。 「で、大提灯、誰が代えてるんですか」詩織が冷静に聞く。 「正解は、あなた達の目の前にあります」 「目の前!」 「目の前と云えば・・・」  三人がゆっくりと笠置に目を合わす。 「えっ笠置さん?」  笠置は大きく顔にしわが幾つも生まれた。 「うーむ。半分正解です」  と云ったあと笠置は一人、大笑いした。 「正解は、南座照明部」 「何で管理部ではないんですか」 「僕もよくわからないんですけど、照明部の方が人数多いからやと」  管理部は三人。照明部は社員、委託のPAG(ピンピン・アート・グループ)を入れて14人である。 「大提灯はまねき上げ行事に合わせて、取り替えます」  まねき上げとは、毎年12月の吉例顔見世歌舞伎興行の前の11月25日に行われる。  檜板で勘亭流で書かれたものが、劇場正面上部に飾られる。 「1級は、それを代えるのはどこの部署かとさらに突っ込んで来ます。どんな事象にもこの突っ込む能力を持ちなさい」        ( 4 )  三人は、これから一か月半、京都に滞在する。  その宿は、南座から歩いて数分の祇園白川にあった。  一行は、東西の四条通りから、南北の縄手通りに入る。 「君たち、今歩いてるのが縄手通り。四条通り挟んで南側が 大和往路。通り名変わるから」 「へえ、そうなんだ」  深くうなづく詩織はメモしながらつぶやく。 「先生、何で変わるんですか」 「それ、説明してたら、長くなるからカット。変わるのは通り名だけじゃなくて、川の名前もそうよ」 「知ってます。二文字の賀茂川から、一文字の鴨川でしょう」  得意満面の笑みを浮かべて寺男が胸を張って答えた。 「鴨川だけじゃないわよ。北野天満宮のそばを流れる紙屋川も天神川に変わるし、あと・・まあ後は現地でね」  縄手通りを歩いて、白川橋を渡り、右折。祇園白川沿いの遊歩道を歩く。 「祇園白川沿いには、歌碑があります・・・」 「吉井勇!」 「ですが、秋に行われる祭は」 「かにかくに祭!」 「11月8日」 「ですが、その歌碑文は」 「(かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる)」 「ですが・・・その近くにあった・・・」 「大友!」 「夏目漱石!」 「お多佳さん」  三人はまたしても知ってる限りの京都知識を吐き出す。  歌人、吉井勇の歌碑。  今はないが夏目漱石が宿泊した宿屋「大友」そして名物女将の名前がお多佳だった。 「ですが、この遊歩道、実は昔はもっと狭く、両側にお茶屋、宿屋がありましたが、今は片側だけです。何故でしょうか」 「何故?」 「道を広げるために、立ち退いた・・・」  詩織がつぶやく。 「で、その理由は?」 「理由は、景観と歩行者安全」  詩織の代わりに鐘也が答えた。 「違います。詩織さん、答え半分かすってる!」 「かすってる」  詩織はオウム返しした。  吉井勇の歌碑をスマホで撮って通り過ぎる。 「答えは、宿屋で聞けます」 「宿屋・・・」  宿屋「白川」は、窓から小さな白川が見えた。  南座の役者、東映撮影所の役者、監督の定宿として、有名だった。  しかし、映画の衰退、近隣のホテルの増加で客足が減った。  そこで柳美は、京都人検定の勉強の場、宿として、交渉した。  女将の白川澄子と手伝い人の黒川雪子が二人揃って出迎えた。 「お江戸の若人どすか」  澄子は三人の顔を一人五秒ほどじっくり見つめながら云った。 「わこーどって何?」小声で鐘也が聞く。 「新型の電源コードだよ」自信たっぷりに寺男が返す。 「これっ、(若人)の意味もわからしまへんのん」  語尾に(フン)を付け加えたのは黒川雪子だった。 「女将さんの白川、うちの黒川、二人合わせて、(白黒)コンビですよってに」と付け加えた。 「はい、皆頭を下げてご挨拶しましょう」  小学生の引率先生の振る舞いして一応、退散を命じた柳美だった。  型通りの挨拶を済ませて各自部屋に荷物置いて、十畳の和室に集まった。 「忘れないうちに云っとくけど、京都人検定試験は、論文が出題されます。そして試験会場で論文用の下書き用紙が配布されるけど、それに書くのは駄目!」 「どうしてですか」寺男が聞く 「提出するのは、解答用紙だけです。幾ら下書きにきれいに書けても無効ですから。それにそんな下書き書いてる時間ないから」  柳美の云う通りだった。記述式100問に論文が5つも出る。 「だったら何故そんなイケズするんですか」 「イケズじゃなくて、これも引っかけです」  続いて澄子が、祇園白川の歴史を話し始めた。 「もう祇園白川と云うと、吉井勇の歌碑が有名ですけど、それだけやなんどす。悲しい歴史があるんです」  とつとつと澄子は語り出した。  太平洋戦争末期、今まで大規模な空襲がなかった京都も、大阪、東京と同じようになるかもしれない。  空襲での類焼防ぐために、住人の強制疎開が始まった。 「つまり立ち退きどす」 「それで、立退料出たんですか」と寺男が聞いた。 「そんなもんあらしまへんがな」 「踏んだり蹴ったり」今度は鐘也がつぶやく。 「ほんまにそうどすなあ。けどあの時は、お国のためならと皆従うたんどす」  澄子は、他に堀川通り、御池通、五条通りもこの強制疎開で住民が立ち退き、道路の拡幅が行われた。 「だから、あそこらは、道路が広いわけか」 「でも結果論ですけど、京都は空襲なかったですよね」  詩織が聞く。 「何間違うた事、云うておいやすのん。京都にも空襲ありました」 「けど学校の教科書にはそう書いてあります」 「そう書いてあったら、その教科書が間違いどす」  きっと、いつになく大声で澄子は云った。 「京都は馬町、西陣で空襲でようけ亡くなっているうんです」  スマホで検索していた寺男が叫んだ。 「本当だ! (西陣空襲。昭和20年6月26日。死者50名。負傷者300名以上。しかし当時言論統制で全国報道されなかった)どうして報道出来なかったんですか」 「そんなもん、報道したら、国民が動揺するからです。けど人々の口にまで統制出来しまへん。数日後には、大阪、神戸の人も知るようになります」  親戚も多数いただろう。今も昔も口コミの威力は凄い。  さらに距離的に近かったせいだろう。 「三月に東京、大阪が大空襲。そこで降参してたら、亡くなる事はなかったんです」  しんみりと静寂が支配する。  その静けさは、森や川などの静寂さと違う、どこか重い空気を引きづるものだった。      ( 4 )  さっきの澄子の真実の言葉の叫びを背中に突き刺されたまま、そして各々こころの奥底の金庫にしまい込んで、しっかりと鍵を掛けて外に出た。  柳美の案内で、まず行ったのは、京都市役所のある御池通を挟んで建つ、本能寺だった。 「今日は時間がないので入り口だけ。はい皆、これ何と読みますか」  柳美が縦長の寺の名前が書かれた石をさした。 「大本山本能寺でしょう」寺男が云う。 「はい正解。云っとくけど、よく歴史に出て来る本能寺の変があった所はここじゃないからねえ」 「移転したんだ」 「そう。昔は御池通、向かいの京都市役所も本能寺の敷地でした」 「すげえ広かったんだ」 「そうです。皆、この名前見て、何か気づかない?」 「気づく?」  三人が一歩前へ足を踏み出した。 「大本山本能寺」  一文字ずつゆっくり区切りながら鐘也がもう一度読んだ。 「ですけど」  不審そうに鐘也が柳美を見た。 「寺男くんは」 「こいつと同じ」 「ああ、わかった!」勢いよく詩織が手を挙げた。 「はい、詩織さん」 「本能寺の(能)の字体、右側が(ヒ)二つじゃなくて、(去る)と書かれてます」 「おお、すげえ!詩織!」  柳美は最小限の説明した。  本能寺の変で、織田信長が、炎にまかれて亡くなった。  その後再建されたが、また火事で全焼。ことごとく、炎の悪縁に強く結ばれた。  そこで、誰かが云い出したのだろう。 「字体にヒが二つある」  じゃあどうするか。  「ヒ」が去るようにと、完全な当て字で作ったのだった。  燈台下暗し。これに気づく京都人は数少ない。  各自スマホで写真、動画を撮った。  次に訪れたのは、御池通に建つ京都市役所の前に行く。 「ここが京都市役所。設計は・・・」 「武田五一」間髪入れず寺男が叫ぶ。 「ですが、武田は他にも」 「京都大学本館時計台」次に鐘也が絶叫した。 「ですが・・・」 「まだ続くのかよ」鐘也は、わざと大げさに顔をしかめた。 「同志社女子大学にある、二つの建物も設計しました」 「知らねえよ、そこまで!」 「そこまで出るのが、京都人検定1級問題です!」  柳美のド迫力に、思わず三人はのけ反った。 「すみません」 「で、答えは」詩織が静かにメモ取りながら聞いた。 「ああそうでした。同志社女子大学ジェームズ館と栄光館です。あと、岡崎にある府立図書館もそうです」  続いて、御池通から御幸町通を上がった。 「皆、あれを見て」柳美が右手を指さした。  煉瓦作りの教会が見えた。 「ただの教会じゃん」鐘也ががっかりな顔を出した。 「鐘也くん、そうじゃない!かの有名なヴォーリズ設計です。京都御幸町教会です」 「ごこまちきょうかい」声に出しながら詩織はメモを続ける。  寺男と鐘也はスマホで写真、動画撮っていた。 「ふーん、そうなんだ」 「ちなみに、大阪心斎橋にある大丸百貨店もそうです」 「大阪かあ。関係ねえな」ぽつんと寺男がつぶやく 「寺男くん、あのね知識はコンピューターと同じくどんどんリンクして覚えていくものです。関係ない事ないです!」 「はあすみません」  これ以上逆らうと、口から炎が出て来そうなのでやめた寺男だった。  御幸町通りをどんどん上がった。もう京都御所の緑が見えて来た。 「京都御所ですか」詩織が聞いた。 「そこはいづれ。今からはここです」  柳美の指さした先には、一軒の町家があった。 (矢澤竹也)  格子戸の一番上の中央には、鼓の丸い表皮が表札代わりで書かれていた。  また格子戸の右側には、勘亭流の墨文字で、 「義太夫三味線教室」と書かれてある檜板がぶら下がっていた。  郵便ポストのマーク「〒」は三味線のバチを縦にして書かれてある。  さらに門灯は、三味線の胴の部分で作られていた。 「これも記録してねえ」 「スマホ撮ってもいいですか」 「いいけど、スマホばかりに頼らないでね。まず脳内に叩き込む」  寺男は自ら頭をはたいて、 「はい、叩き込みました」とおどけた。 「嘘つけ!」鐘也が思いっきり、後ろから頭を叩いた。 「痛いっ!」  詩織は、メモ帳にそれぞれスケッチしていた。 「さあ、入るわよお」  表通りの格子戸を開ける。  奥の玄関先まで幅一間ほどの縦長の路地が続く。  石畳の両側は苔で覆われていた。  玄関先には、大きな火鉢が置かれていて、向日葵が何本かささっていた。家の玄関を開けた。 「ようお越しくださいました」  出迎えたのは富小路志乃、矢澤竹也の内縁の妻の志乃である。  玄関のたたきに靴を脱いだ詩織は、バランス崩して、志乃に倒れ掛かった。 「キャー」 「大丈夫どすか」  詩織は、咄嗟に、両手を志乃の頭にしがみついた。  手には、志乃の髪の毛がついた。 「すみません」  詩織は、志乃の髪の毛をポケットに素早く入れた。 「何やってんだよ」寺男が苛立つ。 「はいはい、前へ進んで」柳美が取りなす。  奥の部屋は坪庭が見えてその手前に八畳の和室があった。  矢澤竹也は、畳に高さ一尺高の特注台の上に鎮座していた  まず畳の部屋に座る。  志乃が四人に冷たい抹茶と季節のお菓子を置いてくれた。 「お菓子は(おしどり屋)のものです」 「さあ遠慮なくどうぞ」台の上から竹也が声をかけた。 「さすがは京都。この竹の切る棒もいいよね」寺男が云う。 「それ、(黒文字)と云います」志乃がにっこりとほほ笑む。 「へえ、知らなかった」鐘也が云う、  次に詩織を除く柳美、寺男、鐘也は抹茶を呑む。 「うめええ」寺男が叫ぶ。 「抹茶屋にミドリムシでも入ってますか」竹也が聞く 「いえ、何でもないです」詩織は目をつぶって呑み出す。  台には、赤毛氈が敷き詰められていた。 「本日は、ようこそ、わざわざ、江戸からお越し下さいまして有難うございます。義太夫三味線の矢澤竹也と云います。皆さん、歌舞伎はご覧になった事がありますか」 「学校観賞の時、国立劇場で」  小さな声で詩織が答えた。 「いいですねえ。その時、寝てた人!」  寺男だけが勢いよく手を挙げた。 「正直でよろしい。まあ歌舞伎には非常に筋が複雑で寝てしまうものがあるのは事実です」  まず竹也は、義太夫三味線、義太夫の演目、近松門左衛門など基本的な事を短く説明した。 「さて、この三味線ですが」  ここで竹也はおもむろに、弦を奏でた。 「ヴォヨーン」  義太夫三味線独特の重低音の響きが和室に染み渡る。 「いいですねえ、この響き。長唄三味線にはない、響きが重いですね」  三人は、長唄三味線と義太夫三味線との違いがよくわからなかったと見えてあやふやなリアクションしかしなかった。 「この響き、F分の1フラットといいまして、身体にはいいそうです。もうずっと聞いていたら、お肌美しくなります」 「それで女将さんは美しいんですね」柳美は云った。 「いえ、この人は元から美しいんです」竹也が云った。 「もうやめて下さい」  まんざらでもない様子の志乃だった。 「ではここで、三味線の説明します」  竹也は、三味線の構造について話し出した。 「三味線の胴の皮は、何で出来てますか」 「猫」まず詩織が云う。 「はい。後は」  一同は黙る。 「固まってしまいましたね。皆さん身近な動物です。恐らくこの三人の中でも家で飼ってる方がいると思うんですが」 「ああ、わかった!犬!」鐘也が大きく手を挙げて答えた。 「大正解。で、その他にも近年では、使う動物がいます」 「・・・・」 「ヒント。日本にはいません」 「もう一声!」寺男が笑いながら云った。 「バナナのたたき売りみたいですねえ。じゃあ飛び跳ねる」 「兎?」詩織が思わず口に出した。 「日本にいっぱいいるだろうがあ」  寺男が、きっと睨みつけた。 「兎じゃなくて、もっと大きいです」 「もっと大きい?」  三人はお互いに顔を見合わせた。 「ひょっとして、カンガルー?」  恐る恐る詩織がつぶやく。 「大正解!そうです。オーストラリアでは害獣でね、沢山捕れるんです」 「音はどう違うんですか」詩織が尋ねた。 「いい質問ですねえ。じゃあ実際に弾いて見せましょう」  竹也が志乃に合図した。  志乃は押し入れから三味線を取り出して渡した。 「ではまずカンガルー三味線から」  竹也が弾き出す。  一同はじっと耳に集中した。  それはヒアリングテストを受ける時の精神集中であった。 「はい、次は犬、猫です」  こうして竹也は、犬、猫の皮で作った義太夫三味線を弾いた。 「どうですか、皆さん違いわかりましたか」 「カンガルー三味線は、何だか軽い感じです」 「いいですねえ。そうです。カンガルーだけに、音が飛び跳ねます」  三人はにやっとした。  そのにやけ顔を見て柳美も笑う。 「あと、弦は蚕、このバチは象牙で出来てます」  長唄三味線のバチよりも一回り大きなバチを片手を上に挙げて見せた。 「あと、この根元の弦の重し、ウエイトですが、これは水牛で出来てます」  さらに竹也は、棹(さお)が紅木こいき)、胴が花梨、上の部分のねじめが黒檀で出来ているのを解説した。 「では最後に、皆さんの京都人検定試験1級の合格を祈念しまして、創作浄瑠璃(京都人検定試験)をご披露いたします」  創作浄瑠璃  京都人検定試験 作 矢澤 竹也  ♪  みやこ大路の   風受けて  ぶらたび続く   学びびと  重なる歴史    幾重にも  民(たみ)の営み 垣間見る  京都人に     なる事の  難儀な課題    背負いしは  こころ折れそう  日々来るが  それでもめげず  一歩ずつ  歩みし先に    合格の  旗印見える    光り受け  今宵も進む    学びびと  幸多かれし    若人よ  拍手が自然に巻き起こった。  何故か、詩織は泣き出していた。 「有難うございました」  竹也が一言云った。 「もう詩織さん、泣き出してしまって。そんなに感動しましたか」 「はい、とっても。出来る事なら、この席に母を連れて来たかったです」 「お母さんは、義太夫三味線が好きなんですか」 「はい、元々岩手、盛岡の出身で津軽三味線を弾いてました。その後、東京に来ました」  詩織の言葉に、竹也の顔色がさっと変わった。 「失礼ですけど、お母さんの名前は」 「宇多野寛子です」 「寛子さんですか・・・」 「師匠、どうしはったんええ」  志乃が声を掛けた。 「いや、何でもないです」 「詩織さん、その胸元の紫陽花のブローチきれいどすなあ」 「いえ、古いもので」 「そんな事あらへん」志乃の眼光が光る。 「それもお母さんからのものどすか」 「いえ、これはお下がりです」 「誰からの」 「志乃、もうええやないか」  竹也が少し苛立つ声で云った。 「すんまへん」 「それじゃあ最後に皆さんで集合写真撮りましょう」  デジカメで三脚つけて、自動撮りで柳美も入って全員で撮った。 「では皆さん、京都人検定試験頑張って下さい!」  と竹也が云ってお開きにしようとした。 「師匠、お願いがあります」詩織が声を掛けた。 「何でしょうか。お金ですか?お金ならありません」 「ではなくて、爪を切って私に下さい」 「爪?」  想定外の言葉に一同はのけ反った。  竹也は自分の爪をまじまじと見つめた。  相対的に、三味線弾きは爪を伸ばしている。  弦を握ったり、押したり、弾くのに不可欠だからだ。  それでも摩耗するので、自分の爪の上から三味線のバチ皮を爪の先の形に切って瞬間接着剤でつけていた。 「三味線奏者にとって爪は大事でして、傷つけないために爪切りは使わずにヤスリで整えます」 「そんな大事な師匠の爪を詩織、お前まさか、その爪と垢を煎じて飲むのか」寺男が茶化した。 「お守りにします」 「はい、わかりました。ここで切るのは、ちょっとね。昔から云うでしょう。(能ある鷹は爪隠す)って!」  誰も笑わなかった。  奇妙な間が、部屋を占領した。 「じゃあ隣りの部屋で切って来ます」  竹也が立ち上がった。  志乃も後に続いて、入った。 「詩織さん、本当にお守りにするんですか」  柳美が聞いた。 「はい」 「爪のお守りってあるんですか」寺男が質問した。 「さあ、私も初めてです」 「詩織は変わってるよ」鐘也が顔を見ながら云った。 「詩織さん、想定外の質問、お願いは前もって私には云って下さい」 「わかりました」 「今回は、師匠が心安くお受けして下さってよかったけども。内心ひやひやもんでした」  これが柳美の本心だった。  襖の戸が開いて、志乃が和紙に包んだものを持って来た。  竹也の両手は白い薄手の手袋をしていた。 「師匠、その手は」柳美が聞いた。 「ええ、手術跡なので、こうしてます。有難うございます」  深く一礼した。 「じゃあお帰りに皆さん、お土産持って帰って下さい」 「師匠、お土産は何ですか」柳美が聞いた。 「はい。鷹の爪です」  玄関口で、一同はずっこけそうになった。 「受けた!」竹也は、ほくそ笑んだ。  その夜、詩織は、東京に住む母親、寛子にメールした。  内容は、今日の出来事を羅列したものだった。  すぐに寛子から電話が来た。  寛子は、メールが苦手で、すぐに電話をかけて来る癖がある。 「メール読みました。で、爪はきちんと保管してすぐに郵送してよね」 「うん、わかった。で、一体何に使うの」 「大丈夫。真実知りたいだけだから」 「だから、何の真実なの」 「それは・・・今は詩織は気にしなくていいから」 「わかった」  お互い、その真実の正体をわかってるくせに、言葉には出さなかった。 「お母さんと、約束してくれるかな」 「何よ、急に」  受話器の向こうで沙織が生唾呑み込んで、受話器を持ち返るのがわかる。 「どんな結果が出ようとも、その真実を背負ってね」 「わかった」 「嘘はなしよ」 「わかってるって」  受話器の向こうで、小さな笑いが起こる。  照れ隠しの笑いか、自嘲気味の笑いか。  そんな感じだった。
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